謙信陣屋敷 (けんしんじんやしき)
最寄地 長野県長野市若穂綿内3549 2014.7.16
謙信陣屋敷 (けんしんじんやしき)
最寄地 長野県長野市若穂綿内3549 2014.7.16
陣屋敷跡説明板
上杉謙信陣屋敷跡
馬場公園
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 国道403号線より「上信越自動車道」を潜り、約60m先を右折南に行き若穂綿内集落に登ってゆく。表記番地の南100mのカーブ付近に「上杉兼信陣屋敷跡」があり、草叢に説明板が建てられている[マップコード54 049 832*44](地図)。
300m程北東に大正天皇の御成婚祝事業で、明治三十三年(1900年)に造られた「馬場公園」があり八幡宮、桜並木がある。
カーブの三叉路を直進して約1.5km行くと、左に妙徳山への林道妙徳線分岐点(地図)があり、林道を700mほど行った終点に2,3台駐車でき、白髭大明神(越智神社)里宮の説明板が建てられている。その先に越智神社里宮の祠があり、そこより約100分、比高差約480mの妙徳山頂に本宮があるが、居合わせた地元の人の話では、道は荒れて、蜂もいて十分な装備がいるとのことだった。城跡はないとのことで、登山は見送った。
【歴史】 天文二十二年(1553年)から永禄七年(1564年)の11年間、越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄は北信濃の覇権をかけて激しい攻防戦を繰り返した。
謙信は大軍を山峡に潜ませるには極めて都合がよく、かつ天然の湧水が各所に出るここに陣を張り、大峰城、葛山城に待機する味方の軍勢に向け、ほぼ一直線上にある春山城(城ノ峰)を中継の狼煙台に使って指揮を執った。
5回の戦いの内、最も激しかったのが永禄四年(1561年)九月の4回目の戦いであった。謙信は此処の陣を発って、妻女山に本陣を構え、信玄は自ら本隊を率いて、茶臼山から八幡原に布陣し、「川中島」(地図)を挟んで対峙した。
謙信は早暁、妻女山からの奇襲作戦で朝霧の千曲川の「雨宮の渡し」を渡り、八幡原の信玄本陣めがけて急襲を仕掛けた。戦いは大乱戦となり、謙信は信玄本陣へ突入し謙信・信玄の2人の「直戦」が展開された。
両軍1万人以上の戦死者を出した。その先鋒には信州の地侍も用いられたため、信州人同士血戦を何回もさせられ、非常な艱難辛苦を舐めさせられ、人、物資共に多大な犠牲を払わされた。『山新田地区活性化プロジェクト説明板』より。