鮫ヶ尾城 (さめがおじょう) (国の史跡)
最寄地 新潟県妙高市宮内239 2014.10.2
鮫ヶ尾城 (さめがおじょう) (国の史跡)
最寄地 新潟県妙高市宮内239 2014.10.2
登城ルート
池の堤防を進む
斐太遺跡
東一ノ丸
堀切6
三ノ丸下の井戸
三ノ丸
二ノ丸
本丸虎口
本丸・城跡碑
鮫ヶ尾城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高150m】
【案内・感想】 斐太神社(表記番地)の裏の駐車場が利用できる[マップコード126 193 018*16]。
公園を経て池の堤防(地図)を通って登ると斐太遺跡(弥生時代の竪穴建物跡六十ヶ所、二重空堀)があり、そこより西に尾根に沿って登る。
堀切があり「東一ノ丸」の曲輪がある。更に堀切を経て、三の丸、井戸があり、上段に二の丸がある。
虎口を登ると本丸(標高190m比高150m)で、城跡碑や案内板、四阿が建てられている。本丸の北に空堀で隔てられた米倉跡の曲輪がある。斐太神社南の道路横にも登り口がある(地図)。
平成二十年(2008年)7月28日、国の史跡に指定された。
【歴史】 築城年は分かっていないが、永正から天正年間に上杉氏(長尾氏)による北国街道の防御を兼ねた街道整備の一環として、春日山城直近の最前線基地の意味合いで築城ないし大規模改修がなされたと伝わる。
上杉謙信の死後に勃発した御館の乱に於いて、城主である堀江宗親は上杉景虎側に付き、御館落城後に関東への唯一の逃げ道(景虎は北条氏康の子ないし北条氏縁者との説がある)となったこの城を経由して逃がすべく、景虎を城に引き入れた。
しかし宗親は安田顕元の寝返り工作に応じ、二の丸に火を放ち当人は退去。その後、総攻撃を受けた鮫ヶ尾城は落城、景虎は妻子共々自刃して果てた。
現在も米蔵跡からはその乱の時に焼けた米『焼き米』が出土する(文化財指定されている為、持ち出し禁止)。また、平成二十年度(2008年度)の調査において、雑穀が混じっていないおにぎりが出土している。