黒野城 (くろのじょう) (県の史跡)
所在地 岐阜県岐阜市黒野308 2014.11.26
黒野城 (くろのじょう) (県の史跡)
所在地 岐阜県岐阜市黒野308 2014.11.26
説明板
本丸南東内堀
本丸南西内堀・土橋
城阯碑・説明板
主郭西側・北側土塁
本丸南側土塁
黒野城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 県道91号線「折立村前」交差点の西300mより北70m、T字路を西に行くと、内堀の南東に駐車場がある[マップコード28 732 640*42] 。㈱KVK(表記番地)の北に位置する。
黒野城跡公園となっており、本丸の周囲に高さ5.4mの土塁、巾9m深さ6m(現在2~4m埋まっている)堀があり、よく保存されている。
本丸南西に、土橋があり、城門・桝形虎口の東に「黒野公民館」が建っており、横に「黒野城阯」の石碑や案内板がある。土塁の北西と南東に櫓跡がある。御殿跡は黒野城跡公園広場となっている。南側の土橋は利便性のため、昭和時代に新たに造成されたものである。
昭和三十年(1954年)12月22日、岐阜県の史跡に指定された。
【歴史】 加藤氏は西美濃安藤氏の一族であり、代々美濃国黒野が所領であったという。
土岐氏に仕えていたが、加藤光泰(加藤貞泰の父)は斎藤龍興に仕えていたが、斎藤氏の滅亡後は織田信長、豊富秀吉に仕え甲府城主として24万石を与えられた。
その後、文禄の役に出陣したが、帰国途中の文禄二年(1593年)に病死した。子の左衛門尉貞泰は幼少であるという理由で、美濃国厚見郡・方県郡4万石に削封されてしまった。
加藤貞泰は領地内の寺院を仮の住居とし、黒野城の築城に着手したという。慶長二年(1597年)貞泰は黒野城の築城の後、城下町の建設や楽市制度を導入するなど、基礎を固めていた。
慶長五年(1600年)、石田三成と徳川家康が対立すると、西軍側の岐阜城主織田秀信につき、竹中重門(竹中半兵衛重治の子)らと共に犬山城の警備を行った。
岐阜城が落城すると東軍に和議を申し入れ、関ヶ原の戦いでは東軍に参戦した。貞泰は戦後、所領を安堵され、黒野城は黒野藩4万石の城となった。
慶長十五年(1610年)、加藤貞泰は伯耆国米子藩6万石へ加増移封され、黒野藩は廃藩となった。これにより黒野城は廃城となった。
その後、貞泰は元和三年(1617年)伊予国大洲城に移り、左近大夫と名を改め、元和九年(1623年)五月に没した。 一説によれば、貞泰が長良川右岸の堤防整備を行った結果、長良川左岸の加納城が浸水したと、加納藩主奥平信昌の正室・亀姫が実父・徳川家康に訴えたため、黒野藩は廃藩となったという。