松山城 (まつやまじょう)
最寄地 石川県加賀市松山町ハ36-1 2018.6.16 2019.6.20
松山城 (まつやまじょう)
最寄地 石川県加賀市松山町ハ36-1 2018.6.16 2019.6.20
登城ルート(緑線は車道)
入口
見張り台空堀
帯郭
主郭・見張櫓台
本丸への土橋・空堀
本丸(南)
本丸(北) から南を見る
本丸北側空堀
松山古墳
松山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高25m】
【感想】 加賀市松山町の動橋川右岸の標高46mの丘陵に築かれている。西側の物見の空堀は深く見応えがある。
土塁の付いた帯郭が物見櫓台のある主郭の東側から北側にかけて取り巻き小規模ながら堅固さを窺わせる。
本丸は広く南北2段になっており、空堀を廻らせ、土橋や切岸が残っている。
【案内】 県道39号線より「松山町集会場」(表記番地)のすぐ南を左折し西に約100m行った墓地手前に駐車できる[マップコード120 227 155*78](地図)。
南へやや登って行き右に行くと、見張台とされる西の小山に着く。逆L字形の空堀があり上段に土塁を備えた帯郭がある。上段に平坦地があり中央に櫓台が残っている。
東側の山が本丸で、二回目に登ってみた。 果樹園の左より南に行くと土塁状の尾根があり、東に行くと「大臣泊館跡地」の看板があり、更に行くと「矢竹群生地」がある。その先に空堀・土橋があり切岸を備えた本丸がある。
本丸は2段になっており北側が低い。北に空堀があり、小郭を挟んで松山古墳が見られる。
【歴史】 築城年代は定かではないが、文明六年(1474年)一向一揆が加賀国を支配するようになってから築城されたと推定される。
永禄十年(1567年)朝倉氏と一向一揆勢が和睦し、廃城となったという。
天正四年(1576年)佐久間盛政の将徳山則秀が一向一揆を攻めた際に松山城に籠り、天正八年(1580年)一向一揆平定後に徳山則秀は松任城城主となった。