篠脇城 (しのわきじょう) (県の史跡)
最寄地 岐阜県郡上市大和町牧912−1 2014.11.26
篠脇城 (しのわきじょう) (県の史跡)
最寄地 岐阜県郡上市大和町牧912−1 2014.11.26
登城ルート
東氏館跡庭園
登り口
大手竪堀
湧水木船
二の丸・本丸切岸
本丸・東家之碑
土塁・社
本丸南横堀・畝状竪堀
篠脇城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高170m】
【案内・感想】 標高523mの篠脇山より続く北の尾根頂上(標高約485m比高約170m)に位置する。
「古今伝授の里フィールドミュージアム」(表記番地)駐車場が利用できる[マップコード403 201 877*76]。
南に歩道橋を渡ると「東氏館跡庭園」があり、池、水車、四阿が建てられ、九代常縁十首の歌碑がある。庭園の南に「古今伝授の碑」の巨石があり、その東に登り口(地図)がある。
九十九折れの登山道の角々に脇坂山三十三観音石像が祀られ、歩行距離700m、30分程で登れる。
頂上近く北面の大手道に二本の竪堀がある。そこを過ぎ、西側に湧水の木船がある。反対に登って行くと虎口があり、腰曲輪、二の丸がある。
その南に一段高く本丸があり「篠脇城跡」の木碑や「東家之碑」の石碑が本丸中央にある。南には土塁、祠がある。本丸下の東・南・西斜面に25条余の畝堀(臼の目堀)がよく残る。また南には、二重の空堀で隔てて、出丸がある。
昭和四十八年(1973年)11月14日、岐阜県の史跡に指定された。
【常縁十首】 常縁十首を以下に紹介する。①「堀川や清き流れをへだてきて住みがたき世を嘆くばかりぞ」、②「いかばかり嘆くとか知る心かなふみまよう道の末のやどりを」、③「かたばかり残さんこともいさかかる憂き身はなにと敷島の道」、④「たよりなき身を秋風の音ながらさても恋しき古里の春」、⑤「さらにまた頼むに知りぬうかりしは行末遠き契りなりけり」、⑥「木葉ちる秋の思いよあら玉の春に別るる色を見せなん」、⑦「君をしもしるべと頼む道なくばなお故郷や隔てはてまし」、⑧「三芳野になく雁がねといざさらばひたぶるに今君によりこん」、⑨「吾世経んしるべと今も頼むかなみのの小山の松の千歳を」、⑩「かへし斎藤妙椿・言の葉に君が心はみすぐきの行く末とおらば跡は逢わじ」。
【歴史】 鎌倉時代、下総国の名門・千葉氏の一族であった東胤行は承久の乱(1221年)の戦功により郡上郡山田庄を与えられ、大和町剣に阿千葉城を築き、3代約90年間居城とした。
『大和村史』によれば初代・東胤行の晩年に築城が始まり、14世紀前半の4代・東氏村のとき、篠脇城が完成して移住したとされる。
応仁二年(1468年)には斎藤妙椿(みょうちん)に攻められて落城したが、関東に在陣していた9代東常縁がこれを伝え聞いて詠んだ歌が妙椿に伝わり、贈歌十首と引換えに城を返還した、と『鎌倉大草紙』にはある。
文明三年(1471年)から文明九年(1477年)にかけて、宗祇が篠脇城に常縁を訪ねて古今伝授を受けている。
天文九年(1540年)に越前国から朝倉氏が来攻したが、城主・11代東常慶の軍は朝倉軍を撃退した。
翌天文十年(1541年)に朝倉氏の再来攻の際は、油坂峠で迎撃している。常慶は篠脇城を修復せず、同年に八幡(現・八幡町)の赤谷山に赤谷山城を築城して移転し、篠脇城は廃城となった。
後に娘婿の遠藤盛数が東氏の後を継ぎ、郡上八幡城を本拠としている。