末森城 (すえもりじょう) (末盛城)
所在地 愛知県名古屋市千種区城山町2‐88 2014.6.14
末森城 (すえもりじょう) (末盛城)
所在地 愛知県名古屋市千種区城山町2‐88 2014.6.14
説明板
鳥居・橋
堀・橋
城山八幡宮
昭和塾堂
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 城山八幡宮(表記番地)の南に大鳥居があり左手に由来看板が建てられている[マップコード4 295 496*53] (地図)。その南の有料駐車場が利用できる。
石段を登ると、堀が良く残っており朱の太鼓橋が架けられている。さらに登った本丸跡には、南に駐車場、北に拝殿がある。
駐車場の西の「二の丸」跡に昭和三年鉄筋コンクリート造の「昭和塾堂」がある。建物がY字型になり中央にドームがある特徴的な建物である。
【歴史】 天文十七年(1548年)、織田信秀(信長の父)が築城し、古渡城より移った。三河国松平氏や駿河国今川氏などの侵攻に備えてのもので、実弟織田信光が守る守山城と合わせて東方防御線を構成したものである。
信秀は、城主に織田信行(信勝、織田信長の実弟)を当てたが、自らが古渡城から移り、天文二十年(1551年)にこの末森城で死去したとも伝わる。
弘治二年(1556年)、信勝は林秀貞、柴田勝家などと共に信長に叛旗を翻すが、稲生(いのう)の戦いで敗れて和睦した。
しかし翌、弘治三年(1557年)、再び謀反を企てたのを柴田勝家が信長に内報し、信勝は清洲城で謀殺された。
末森城は城主不在のまま放置され、いつしか廃城になった。城の西北山麓に信秀の霊廟があったが、現在は南東約700mにある桃巌寺(名古屋市千種区四谷通2‐16)内で信勝と共に供養されている。