古宮城 (ふるみやじょう)
所在地 山梨県北杜市須玉下津金2960 2015.9.12
古宮城 (ふるみやじょう)
所在地 山梨県北杜市須玉下津金2960 2015.9.12
明治学校
昭和学校
堀道
石垣
城迹碑
空堀
古宮城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 津金学校明治学校(下津金2963)はカフェとして利用され、西に昭和学校(津金公民館)、大正学校(㈱おいしい学校)と校舎が並び、家族連れが訪れている。明治学校の南に駐車場があり、昭和学校との間を北に行くと、石垣の上に諏訪神社(表記番地)がある。
灯籠の横に「古宮の城迹(あと)」(平成四年四月建之)の石碑が建てられ、裏面に由来文が刻まれている。拝殿横の忠魂碑の裏側に曲輪跡の杉林があり、西側に空堀が良好に残っている。
その西に昭和学校プールの横から伸びる堀道があり石垣がある。神社の東から北は急崖となっている。諏訪神社は近くにもう1ヶ所あるので間違えないように注意した方がよい。
【歴史】 『甲斐国志』に記された「古宮城迹」である。戦国時代、武田氏に仕えて甲信の国境警護に任じた武士団津金衆の旗頭津金氏歴代の居城で、城跡の規模は縦118間(212m)横65間(117m)で二重の堀を回らしていた。
文明年間(1469~87年)常陸佐竹氏の一族薩摩守胤義と子・美濃守胤秀が武田信昌を慕って甲州に来て、津金郷に封ぜられ、姓を佐竹より津金と改めた。
津金氏は世に人材を輩出し、津金衆の旗頭として功多く、主家武田氏滅亡後は徳川家康に従い、天正十年(1582年)の天正壬午の乱で、各地で勲功を挙げた。
江戸時代には望まれて尾州藩に仕えた。その後、廃城となった。城迹と古宮の社は地域守護の要の地霊社として、氏子が維持している。
明治の学制の頒布に伴い、明治八年(1875年)古宮城迹に藤村式校舎が完成し、現在に至っている。『石碑由来文』