長久保城 (ながくぼじょう) (長窪城)
最寄地 静岡県駿東郡長泉町下長窪1076−1 2014.6.12
長久保城 (ながくぼじょう) (長窪城)
最寄地 静岡県駿東郡長泉町下長窪1076−1 2014.6.12
登城ルート
城山神社
神社西側の土塁
神社北側の土塁
城跡碑・由来碑
由来碑
北小学校
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 国道246号線に面した日本トイザらス (株) 長泉店駐車場を利用した。国道を挟んで「三菱アルミセンター」倉庫の東角に城跡碑と由来碑が建てられている(地図)。
西に道路を挟んで城山神社があり、城山神社の北に長泉町立北小学校がある。国道工事等により本丸・二の丸跡は消滅し、「トイザらス」敷地や物流倉庫敷地となっており、城山神社境内に八幡曲輪の土塁(地図)と、北小学校の周辺に三の丸の遺構が残るのみになっている。
【歴史】 鎌倉時代初期に竹の下孫八左衛門が長久保の地に砦を築いたのが始まりと云われている。竹の下孫八左衛門頼忠は藤原家一門の出で、足柄の竹の下を根拠としていて、伊豆国や大岡庄の北条氏や牧氏の侵略を阻止するため、砦を築き前進防衛基地とした。
室町時代になり、大友能直(よしなお)の後裔・大友親頼の三男親政が、永享十一年(1439年)、足利持氏の滅亡により、今川氏に仕え駿河国駿東郡長久保を領し、長久保氏を名乗り、居城とした。
戦国時代、今川氏、北条氏、武田氏との間で争奪戦が繰り広げられた。永禄十一年(1568年)武田信玄の駿河侵攻が開始され、永禄十二年(1569年)今川氏が没落すると、長久保氏の嫡流は常陸国に移り、武田氏が支配した。
天正十年(1582年)、武田氏滅亡後は徳川家康の持城となった。関東に家康が移封されると中村一氏の持城となったが、慶長五年(1600年)に移封され長久保城は廃城となった。