加賀野井城 (かがのいじょう) (加賀井城)
最寄地 岐阜県羽島市下中町加賀野井848 2019.6.21
加賀野井城 (かがのいじょう) (加賀井城)
最寄地 岐阜県羽島市下中町加賀野井848 2019.6.21
標柱・説明板
標柱・説明板
説明板
加賀野井城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 木曽川右岸堤防近くの水田にあり、標柱で城跡があった事を知ることが出来るが、遺構は消滅している。
【案内】 県道184号線より狭い道路を西に行った、表記番地南に低い土塁があり、城跡標柱と説明板が建てられている[マップコード28 131 670*35]。
【歴史】 築城年代は明らかではないが、天正年間(1573~92年)加賀野井弥八郎秀望が織田信雄の臣下となり1万石を領して城主となっていた。
天正十年(1582年)本能寺の変の後、羽柴秀吉と織田家との間に対立が生じ、天正十二年(1584年)四月の長久手の戦いでは、羽柴方の大敗となった。
同年五月羽柴秀吉は雪辱のため一転して加賀野井城を攻撃した。秀望をはじめ織田信雄の援兵も加わり2千人余が城を守っていたが、羽柴方の10万の大軍の前に抗しきれず、城の明け渡しと助命を条件に講和を申し入れたが、秀吉は受け入れなかった。
秀吉側は五日には竹ヶ鼻および祖父江(稲沢市祖父江町)近辺に放火し、加賀野井城の外構を破って堀を残すのみとなった。加賀野井城の兵は大手より打って出たが、討ち取られ七日に落城して、将兵は断首された。援軍の大将で織田信雄の家老・神戸与五郎や加賀野井秀望は辛くも脱出に成功した。戦死者はおよそ千人を数えた『勢州軍記』
続いて奥城も落ち、翌十日には竹ヶ鼻城も攻略予定に入った(竹ヶ鼻城の水攻め)。
加賀井秀望はその後、秀吉から登用の誘いを受けて仕え、慶長四年(1599年)には加賀野井に8千石の知行があったが、翌年の関ヶ原の戦いの直前に殺害され、西軍についた加賀井氏は所領を没収された。
慶長十三年(1608年)の御囲堤築造に伴う治水工事で城郭・城地の大半を失ったと推定されている。