屋代氏館 (やしろしやかた)
最寄地 山梨県北杜市明野町上神取1383 2019.8.10
屋代氏館 (やしろしやかた)
最寄地 山梨県北杜市明野町上神取1383 2019.8.10
説明板
土塁(南から)・説明板
土塁(北から)
居館跡・土塁(東側)
屋代氏館跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 塩川東の台地上にあり、100m四方の規模で水田となり、西側の土塁が50m程残っている。
【案内】 県道604号線より東に塩川を渡って行った、民家(表記番地)の先に土塁があり、説明板が建てられている[マップコード167 773 216*46]。
【歴史】 屋代氏は、村上流源氏の一族で、屋代城を本拠とし代々信濃国屋代郷を領していたが、天文二十二年( 1553年)、 屋代志摩守正国が武田晴信の旗下になった。
天正三年(1575年)長篠の戦いで長子正長が戦死すると、正国は弟秀正を養子とし、秀正は屋代左衛門尉勝永と改め、後には越中守を称した
天正十年(1582年)武田氏が滅びると、上杉景勝に仕え、翌年には徳川家康の家臣酒井忠次に属した。
慶長十九年(1615年)勝永は上神取に入植し、現在地に居館を構えた。巨摩郡1万5千石を真田隠岐守信昌(須玉町大蔵)、三枝平右衛門昌吉(須玉町東向)と共に知行した。
勝永は元和九年(1623年)に没し、子忠正が継ぎ1万石を領有した。
寛永九年(1632年)主家駿河大納言忠長の罪過が原因で甲斐と信濃の領地を没収された。この時、屋代氏の居館も廃絶されたと推測される。
忠正は寛永十三年(1636年)には赦され、寛永十五年には安房国に1万石を賜った。寛文二年(1662年)に没した。