中牧城 (なかまきじょう) (浄古寺城 )(じょうこじじょう)
最寄地 山梨県山梨市牧丘町城古寺770-1 2015.11.22
中牧城 (なかまきじょう) (浄古寺城 )(じょうこじじょう)
最寄地 山梨県山梨市牧丘町城古寺770-1 2015.11.22
説明案内板
八幡神社説明板
本丸入口
天守台跡
天守台跡碑
本丸北西の内堀
二の丸土塁
二、三の丸空堀
宝篋印塔
中牧城 天守台跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 八幡神社(表記番地)に駐車出来、境内に説明板が建てられている[マップコード59 895 021*65]。
神社前の道路の北が本丸跡で、墓地の東の一段下がった畑が馬出しで、さらに北に歩くと天守台跡の土壇があり、石碑が建てられている。また北から西にかけて幅広の内空堀が見られる。
道路の南が二の丸、三の丸で、更に城古寺公民館より下った葡萄畑の中に、足利尊氏の供養塔、二階堂道蘊(どううん)の「宝篋印塔墓」(地図)がある。
墓地の横より登った本丸跡は、葡萄畑となり、西の高台が天守台跡で「中牧城本丸天守台跡」(平成2年3月)の石碑(が建てられている。本丸の北から西に幅20mほどの内堀が残っており、一部葡萄棚が作られている。
その北西に外郭があり、墓地等があり、外郭の北に道路となっている外堀がある。南に土塁(地図)が残り、柿の実が生っていた。二の丸、三の丸の西に空堀(地図)が残り、用水路が通っている。
【歴史】 武田信玄の時代、北国防衛のため天文十七年(1548年)に土地の豪族大村氏に命じて築城した。
大村加賀守、伊賀守が城主となったが、天正十年(1582年)武田勝頼滅亡の後、中牧城兵は徳川家康に反抗して敗れた。
家康入国後は家臣の内藤三左衛門が城代となり、天正十七年(1589年)に修築した。
【構造】 城の規模は東西約330m、南北約430mで本丸と天守台跡、二の丸、三の丸、大手門、搦手門跡や城内鎮守八幡社の塹壕も一部分を偲ぶ事が出来る。付近には城にまつわる地名で屋敷、堀の内、替地、請地、田屋(胎屋)堀端などがある。『牧丘町教育委員会』説明板より。