宇利城 (うりじょう) (県の史跡)
最寄地 愛知県新城市中宇利坂37 2016.4.27
宇利城 (うりじょう) (県の史跡)
最寄地 愛知県新城市中宇利坂37 2016.4.27
登城ルート
入口標識
御馬屋平
松平右京亮の墓
姫御殿
本丸・土塁
宇利城址碑
本丸北の空堀
納所平
配置図(上が北)
宇利城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 県道81号線「中宇利」交差点北、表記番地手前に見学者駐車場が用意されている[マップコード43 679 794*55] (地図)。
北に100m、橋を渡ってすぐ左折、約200m行くと案内標識があり、畦道を東に行くと、登りがある(地図)。登り口手前に説明板が建てられている。
北に大手道を登ってゆき、三叉路を右に行くと、「御馬屋平」があり、三叉路を左に行くと「松平右京亮の墓」がある。
更に登ってゆくと虎口に出、右手に「姫御殿」、左手に「本丸」がある。本丸跡には、大きな「宇利城跡」の碑があり、説明板、「宇利城址」の石碑が建てられている。北側の土塁上に一段高く物見櫓跡がある。
本丸の南に井戸があり、西へ行った階段状の郭に石垣が残る。
本丸北に空堀を挟んで「納所平」、空堀、平坦地と並んで、裏山へとつながっている。
昭和三十二年(1957年)9月6日、愛知県の史跡に指定された。
【歴史】 連郭式と螺旋式を併用した山城で、文明年間(1469~87年)今川方の熊谷重実が築城した。
享禄二年(1529年)松平清康の侵攻によって落城した。その後天文十四年(1545年)今川義元の攻撃を受け、今川氏に仕えた近藤満用らが在城した。
永禄十一年(1568年)家康側に寝返った近藤氏は武田軍の攻撃に耐え、その後居城を柿本城に移した。その後の宇利城の状況は定かではない。
「宇利の戦い」 東三河は今川氏の勢力範囲であったが、氏輝の代になるとその力も失われ、松平清康はこの機に東三河を手に入れようとした。
享禄二年(1529年)十一月四日、3千余の軍勢を率いて宇利城を攻めた。吉田、田原、牛久保、作手、田峯、野田、西郷、伊奈、設楽などをそれぞれ従えたが、宇利城主の熊谷実長は今川氏との盟約を固守していたためだった。
城郭の前面や側面が沼田で、裏手を山で囲まれた天然の要害であった宇利城の戦況は熾烈を極めた。このとき、城の大手で松平右京亮親盛(清康の叔父)が討ち死にした。
清康は苦戦したが、城内の松平方に通じた岩瀬庄右衛門が、城に火をつけた為、熊谷実長は裏山伝いに落ち延び、ついに落城した。『新城市教育委員会説明板』より。