守山城 (もりやまじょう) (二上城・海老坂城)
所在地 富山県高岡市東海老坂2092 2014.10.26
守山城 (もりやまじょう) (二上城・海老坂城)
所在地 富山県高岡市東海老坂2092 2014.10.26
帯曲輪
北側通路横の堀切
公園
四阿・説明板
平和観音像
説明板
守山城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 国道160号線「万葉ライン入口」交差点より西へ「ニ上山万葉ライン」を約2.8km登った高岡市二上山中継局(表記番地)前に駐車場があり公園となっている[マップコード40 721 198*50]。
電波塔横に竪堀があるが、遺構は少ない。本丸には観音像が建てられ、説明板がある。眼下に高岡市街を一望できる。東に一段下がって帯曲輪がある。
越中平野を一望に見下ろし、山高く道険しく前方は小矢部川、後方は氷見の湖水に挟まれた要害であり、築城時期は明らかではない。
「南北朝末期(1371年)に南党の桃井直常が石動山天平寺の宗徒と示し合わせて、越中守護・斯波義将の本城・守山を攻め落とした」と書かれているため相当古いと考えられる。
松倉城(魚津市)、増山城(砺波市)と並び越中三大山城と称された。
【歴史】 永禄十一年(1568年)三月、越後の上杉謙信は大軍を率いて越中へ侵攻し、守山城を攻撃した。
当時の城主・神保氏張は、謙信に降伏して配下となっていた神保氏当主・神保長職と対立していた。
この時は謙信の本国・越後で本庄繁長の乱が起きたため、謙信は守山城攻めを中止し、引き上げた。
この後、度重なる謙信による越中出兵に遭い守山城は陥落、上杉方の城となった。
天正六年(1578年)の上杉謙信の死去後、佐々成政が在城した。
天正十三年(1585年)、富山の役で前田軍が攻め落とし、秀吉から賞賜されて前田利長の居城となった。
慶長二年(1597年)利長は富山城を築いて守山城を去り、以後前田対馬守長種が守ったが、城下の寺院や商工業者は富山に移り、城下町は急速に寂れていった。この後廃城となったと考えられる。