松ノ木城 (まつのきじょう) (美濃高松城)
所在地 岐阜県海津市海津町松木510 2019.7.6
松ノ木城 (まつのきじょう) (美濃高松城)
所在地 岐阜県海津市海津町松木510 2019.7.6
大門橋
御霊神社
御霊神社
堀状窪地
松ノ木城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 海津市海津町松木を流れる東大江川に、大門橋が架けられ、その西にある御霊神社一帯が城跡と云われている。
北約300mにある「新日本ウエックス㈱岐阜工場」付近までが城跡と考えられているが、住宅地や畑となり、遺構は消滅している。
【案内】 松木多目的集会所(表記番地)横にある御霊神社が城跡と云われる[マップコード78 289 310*22]。
境内北東側に溝状の窪地が見られる程度で、標柱、標識などは無かった。
【歴史】 戦国時代、織田信長の臣吉村兵庫頭・吉村又吉郎安実が居城していたが、天正十年(1582年)信長没後はその次男である織田信雄に仕えた。
しかし信雄が改易されると、吉村氏は徳川氏に従って関東に移った。
天正十一年(1583年)賤ヶ岳合戦後、豊臣秀吉の臣徳永寿昌(ながまさ)が時期ははっきりしないが、海西郡高松2万石を与えられ美濃高松藩の居城とした。
慶長五年(1600年)七月、石田三成の挙兵に際し、福島正則の命を受けた八月十六日、松ノ木城の徳永寿昌と、今尾城主・市橋長勝は、福束城の丸毛(まるも)兼利を攻めた。
『美濃国諸旧記』によれば、2千余の軍勢を率いた寿昌、長勝らは、大を挟んだ大藪村・大榑(おぐれ)村(いずれも輪之内町)の戦いで、夜半に敵村に忍び込み村人を味方につけ、火を放って勝利したという。兼利は城を捨て大垣城へ敗走した。
八月十九日には高須城を攻め、城主高木盛兼を追放し、東軍の勝利に貢献した。
九月十五日の関ヶ原の決戦当日には、寿昌は、長勝らと共に金屋(養老町)に駐屯し南宮山の南端に陣を敷く西軍勢に備えた。
関ヶ原の戦い後、功績を認められて同年十一月、5万6千石に加増の上で美濃高須藩(高須城)に移されたため、美濃高松藩は廃藩となり、松ノ木城(美濃高松城)も破却された。