魚津城 (うおづじょう) (小津城・小戸城)
所在地 富山県魚津市本町1-10-39 2013.7.8
魚津城 (うおづじょう) (小津城・小戸城)
所在地 富山県魚津市本町1-10-39 2013.7.8
大町小学校
標柱・城址碑
説明板
【遺構★☆☆☆☆】
【案内】 魚津市南部の角川河口の北付近に位置し旧北陸道に面した交通の要衝に築かれた平城であった。
現在は魚津市立大町小学校(表記番地)や裁判所の敷地となっており、小学校の南に「魚津城址」の石碑、標柱、説明板が建てられている(地図)。
北西隅に土塁が認められる。天正十年の魚津城の戦いの顛末が絵入り説明文で掲示されている。
江戸時代中頃の寛政十年「魚津町惣絵図」には、方形の本丸とそれを囲む二の丸や堀が描かれており、近年までその堀の一部が残っていた。
昭和三十八年(1963年)4月1日、魚津市の文化財に指定された。『魚津市教育委員会案内板』より
【歴史】 築城は室町時代初期と考えられ、越中国新川郡を治めていた椎名氏により、松倉山の松倉城の支城として築かれた。
戦国時代椎名康胤が上杉氏から離反すると、椎名氏を追討に出た上杉方の手に落ち、以後上杉方の重要な拠点であったが、天正十年(1582年)織田方の柴田勝家・佐々成政・前田利家らに攻められ、直江兼続に応援要請を行った。
しかし、本能寺の変の翌日である六月三日に落城し、十二名の魚津城将は自刃した。
やがて本能寺の変で混乱した織田軍は撤退し上杉氏が奪回した。
翌年、態勢を立て直した佐々成政に再び包囲され、時の城将・須田満親は降伏し開城し、佐々氏の支配下になった。
天正十三年(1585年)、豊臣秀吉自ら越中に乗り出し、富山城を十万の大軍で包囲し、佐々成政は織田信雄(のぶかつ)の仲介により降伏した(富山の役)。
成政の没落後、前田氏の支配下となり青山吉次が城代を務めた。
江戸時代、慶長二十年(1615年)六月の一国一城令により、廃城となった。その後加賀藩の米倉や武器庫が置かれ、城の周囲に奉行所や寺院が配され、新川郡の政治的・軍事的中心として栄えた。