牧之島城 (まきのしまじょう) (牧城) (県の史跡)
所在地 長野県長野市信州新町牧野島248 2014.7.16 2014.10.22 2019.8.31
牧之島城 (まきのしまじょう) (牧城) (県の史跡)
所在地 長野県長野市信州新町牧野島248 2014.7.16 2014.10.22 2019.8.31
登城ルート(緑線は車道)
普光寺・城址碑
三日月堀
東側空堀・橋
千人枡形
本丸跡・土塁
二の丸側舛形・土塁
二の丸跡・橋・本丸土塁
西側1番目の空堀
西側2番目の空堀
牧之島城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 犀川が大きく蛇行する地点に突き出た半島状地形に築かれた平城となっている。
空堀、丸馬出しと深い空堀、千人桝形、本丸、2の丸が公園として整備されている。
千人枡形(隠れ枡形)や三日月堀、丸馬出しなど甲州流築城術の特徴を現在に伝えている。
本丸は土塁で囲まれ、「御前水井」が残り、千人桝形の土塁上に「琵琶古跡神社」「玄蕃稲荷神社」が建っている。北に虎口を開いて水堀、橋があり二の丸跡に続く。
2条の幅広の空堀が、西側の道路横に見ることが出来る。
【案内】 普光寺(表記番地)の山門前に、牧城跡の石碑が建てられ、香坂氏の居館跡であったことを伝えている。
そこより西へ300mほど行くと、城跡があり、丸馬出しに駐車できる[マップコード177 810 040*82]。
昭和四十一年(1966年)三月、長野県の史跡指定を受け、昭和四十七年(1972年)から昭和五十一年(1976年)にかけて史跡保存のため、公園として大規模に整備された。
【歴史】 築城年は不明で、鎌倉時代の承久三年(1221年)の「承久の乱」で佐久の滋野一党として執権北条方に付き、戦功によりこの地を領した香坂氏により築城された。
香坂氏六代目の香坂心覚が建武三年(1336年)に南朝(北条残党)方として中先代の乱で挙兵し、村上氏や高梨氏など北信濃の北朝方と一月と六月に激しく争った。
応永六年(1399年)に起きた大文字一揆で、香坂宗継が一揆軍として奮戦し、守護の小笠原長秀を京都へ追いやり、犀川中流域に於いて香坂氏の地位を確固とした。
文明年間(1469~87年)には、守護小笠原家の内紛から伊那の小笠原氏に攻められ府中(松本)を追われた小笠原長朝は、牧城にて香坂氏に一時かくまわれた。
戦国時代の当主香坂宗重は武田信玄に臣従(無血開城)し、弘治二年(1556年)に信玄の命により埴科(はにしな)郡に移り、代わって馬場信春(信房)が牧城に入城した。
永禄九年(1566年)武田信玄が牧城の一部に、牧之島城を馬場信春に築かせ城代とした。
天正三年(1575年)、信春が長篠の戦いで戦死した後は、信春の子の馬場昌房が城代になった。
天正八年(1580年)武田勝頼の時、荒町にあったと云われる普光寺が現在の地に移された。
天正十年(1582年)に武田氏が滅亡した後は、上杉景勝支配下の属城になり、芋川親正が城主となった。
慶長三年(1598年)景勝の会津移封後は、海津城主田丸直昌・森忠政、松平忠輝らの属城となった。
元和二年(1616年)、忠輝が改易されると共に牧之島城も廃城になった。