高須城 (たかすじょう)
最寄地 岐阜県海津市海津町高須町337 2019.6.21
高須城 (たかすじょう)
最寄地 岐阜県海津市海津町高須町337 2019.6.21
説明板
城跡公園・説明板
城跡公園
西民家裏の土塁
史蹟おほり(主水橋)
高須小学校北の堀跡
高須城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【感想】 城跡公園一帯が高須城跡とされ、周囲には民家が建ち、西側民家裏に土塁が一部見られる。民家は高台にあり、城跡の雰囲気が漂う。
高須小学校との間に堀跡の用水路が流れ、主水橋の欄干に「史蹟おほり」と刻まれている。
【案内】 海津市立高須小学校(表記番地)の北側に堀跡があり、その北側に城跡公園があり説明板が建てられている[マップコード78 195 298*67]。
【歴史】 高須城は、暦応元年(1338年)に氏家重国によって築かれた。
大永二年(1522年)大橋重一が入り、その後信重、重長と続いた。大橋氏は後に勝幡城の織田信秀に属し、天文年間(1532~55年)以降は高津直幸、平野長治、秋山信純など多くの城主が入れ替わった。
豊臣政権下の文禄元年(1592年)より、土豪の一族だった高木盛兼が城主で1万石を領有した。
関ヶ原の戦いで西軍に付いた盛兼は籠城していたが、慶長五年(1600年)八月十九日、東軍の福島正則の命を受けた松ノ木城の徳永寿昌(ながまさ)、今尾城の市橋長勝ら東軍の攻撃を受けた。『高須城主記』によると、降伏をすすめる使者を受け入れた盛兼は、舟で城から逃れ去ったという。
関ヶ原の戦い後、東軍方の松ノ木城主徳永寿昌が高須城を攻め取った軍功により、5万673石で入封し、高須藩が立藩した。
寛永五年(1628年)に徳永昌重は改易となり、幕府領となった。
寛永十七年(1640年)に下総関宿より小笠原貞信が入封するが、元禄四年(1691年)には越前勝山城へと転封となった。
元禄十三年(1700年)、尾張徳川光友の次男松平義行が3万石を領して信濃竹佐から入封する。
以後、高須松平家は尾張家の分家として高い格式を保ち13代義勇の時に明治維新を迎えた。