末森城 (すえもりじょう) (末守城・末盛城) (県の史跡)
最寄地 石川県羽咋郡宝達志水町竹生野へ 2014.10.27
末森城 (すえもりじょう) (末守城・末盛城) (県の史跡)
最寄地 石川県羽咋郡宝達志水町竹生野へ 2014.10.27
登城ルート(緑線は車道)
登り口・橋
末森山古戦場の石碑
若宮丸虎口
若宮丸
二の丸虎口・空堀
二の丸跡
本丸虎口
本丸跡
馬掛場
末森城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【案内・感想】 国道471号線の表記番地付近より東に180m程行くと、国道159号線を跨ぐ橋の手前に駐車場があり[マップコード 336 587 567*33 ](地図)、橋の向かいに大きな「末森城跡」の看板がある。
その横に前田家18代当主利祐氏による「末森山古戦場」の石碑が建てられている。
600m程緩やかな遊歩道を登って行くと、若宮丸(地図)がある。そこより北に登ると三の丸、二の丸、本丸と段々に高くなって曲輪がある。
空堀や土橋を通り、虎口を登ると標高138.8m比高約100mの「末森山」頂上に本丸跡があり、中央付近に案内看板がある。
三の丸東の下段、杉林の中に「馬掛場」の平坦地がある。曲輪は山中に点在し合計面積は三万㎡におよぶ。
【発掘調査】 昭和六十年から押水町(平成十七年3月1日、志雄町と合併し宝達志水町)によって大規模な発掘調査が行われ、山中からは生活用具や鉄砲の弾など十五世紀後半から十六世紀後半の歴史的資料が多く出土した。
平成三年(1991年)に石川県の史跡に指定された。
【歴史】 畠山氏の家臣で地頭職であった土肥親真によって築城されたとされるが、詳しくは不明である。
天正五年(1577年)に越後国より侵攻してきた上杉謙信に降伏し、斎藤朝信らが末森城に入ったとの記述があり、その後、そのまま親真が城主として配された。
しかし、天正八年に加賀国の一向一揆を鎮圧した織田信長家臣の柴田勝家らが侵攻して、再び降伏した。
土肥氏は同地に改めて配された前田利家の与力的な立場となったため、これ以後前田氏が支配することとなった (なお、この際に土肥親真は前田利家の妻芳春院(まつ)の姪を娶るが、末森城に在したため「末守殿」と呼ばれた)。
末森城は加賀国と能登国を繋ぐ交通の要所であり、天正十二年(1584年)九月、徳川家康に同調した佐々成政が1万5千の兵を以て、この城を攻めたが城主奥村永福ら兵5百が死守し、前田利家軍数千の急援により、成政軍は撤退した(末森城の戦い)。
この勝利により前田利家の能登・加賀統治の基礎となったともいえるが、慶長二十年(1615年)六月の一国一城令により廃城となった。