堀川城 (ほりかわじょう)
所在地 静岡県浜松市北区細江町気賀 2018.3.3
堀川城 (ほりかわじょう)
所在地 静岡県浜松市北区細江町気賀 2018.3.3
首塚・城跡
説明板
首塚・城趾碑
城趾碑
獄門畷の碑
説明板
堀川城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 奥浜名湖へ注ぐ都田川河口右岸に築かれていた平城で、微高地の一角にひっそりと石碑が建てられている。遺構は無いが、横に堀川城の戦いの「首塚」が祀られている。
【案内】 天竜浜名湖線「気賀駅」より南西へ600mほど行った、田圃の中に「堀川城趾 古戦場」の碑が建てられている[マップコード26 452 897*21]。
また北方約600mの国道362号線横に「堀川城将士最期之地」の石碑が建てられている[マップコード26 483 631*75](地図)
【歴史】 永禄三年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元が戦死した後、その子今川氏真の影響下にあった土豪と土地の者は砦を築き、地名より堀川城と名付けた。ほど近い刑部(おさかべ)にも刑部城を築き、徳川家康の遠江侵攻に備えた、と伝えられている。
永禄十一年(1568年)徳川家康は遠江侵攻に当たって、井伊家の被官井伊谷三人衆(近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時)を調略し本領を安堵した。
家康は井伊谷から刑部城、引間城(浜松城の前身)へと軍を進め、遠江に前線を得た。大沢氏と連携した土豪の新田友作、尾藤主膳、山村修理や農民2000名は堀川城に立て籠もって抵抗した。
翌、永禄十二年(1569年)三月二十七日、家康は堀川城を攻め、籠城兵を「撫で切り」にし、敗残兵を探し出して、気賀の獄門畷にさらし首にした。
一部の兵は対岸の堀江城に渡り落城の情報を伝え、堀江城主大沢基胤は家康との和睦を選択した。