神戸城 (かんべじょう) (本多城) (県の史跡)
所在地 三重県鈴鹿市神戸5丁目10−22 2016.4.2
神戸城 (かんべじょう) (本多城) (県の史跡)
所在地 三重県鈴鹿市神戸5丁目10−22 2016.4.2
城跡配置図
水堀
本丸土塁
天守台石垣
天守台
城阯碑
顕正寺移築大手門
蓮花寺移築太鼓櫓
神戸城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 「本多会館」(表記番地)の北に、駐車場が用意されている[マップコード38 159 141*50]。
城跡は神戸公園として整備され、本丸の石垣および堀の一部が残り、南側に土塁が残る。本丸南東に城址碑、説明板が建てられている。
二ノ丸、三の丸は神戸高校敷地となっている。
国道23号線「北玉垣町北」交差点より、東に約450m行った、「蓮花寺」(鈴鹿市東玉垣町994)に、移築された二の丸太鼓櫓がある(地図)。
また, 「顕正寺」(四日市市西日野町2970)に移築された大手門がある(地図)。
昭和十二年(1937年)12月14日、三重県の史跡に指定された。
【歴史】 伊勢平氏の子孫関氏の一族神戸氏は、南北朝時代(14世紀)飯野寺家(いいのじけ)町の地に沢城を築いたが、戦国時代の1550年には、この地に神戸城を築いて移った。
神戸氏7代友盛は、北勢に威を振るったが、織田信長軍の侵攻により、永禄十一年(1568年)その三男信孝を養子に迎えて和睦した。
信孝は、天正八年(1580年)ここに金箔の瓦を用いた五重の天守閣を築いた。
しかし、天正十年(1582年)本能寺の変後、岐阜城に移り、翌年秀吉と対立して知多半島で自刃した。
文禄四年(1595年)には天守閣も桑名城に移され、江戸時代を通じて天守閣は造られず、石垣だけが残された。
江戸時代、一柳(ひとつやなぎ)直盛が城主となり、寛永十三年(1636年)6万8千石で西条陣屋に転封になった。その後石川氏3代を経て、享保十七年(1732年)本多忠統(ただむね)が入国した。
本多氏の治世は140年間7代忠貫(ただつら)まで続き、明治八年(1875年)城は解体された。
その後、堀は埋められ城跡は神戸高校の敷地となった。『鈴鹿市教育委員会説明板』より。