阿坂城 (あざかじょう) (椎之木城・白米城)(はくまいじょう) (国の史跡)
最寄地 三重県松阪市大阿坂町1180 2016.4.2
阿坂城 (あざかじょう) (椎之木城・白米城)(はくまいじょう) (国の史跡)
最寄地 三重県松阪市大阿坂町1180 2016.4.2
登城ルート(赤は白米城/緑は椎之木城)
白米城址碑
浄眼寺・登リ口(右へ)
椎之木城虎口
椎之木城二郭跡
椎之木城主郭
白米城主郭登り口
白米城主郭跡
白米城二郭西の堀切
白米城二郭跡
椎木城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高270m】
【案内・感想】 県道58号線の西に「白米城阯」の石碑が建てられている(地図)。
その北約400mより左折、西に900mほど行った浄眼寺(表記番地)の手前に登山者駐車場が用意され、説明板が建てられている[マップコード80 340 718*80]。
約2.1kmの歩行距離を延々と登ると、椎木城跡の北側の堀切に着く。
椎木城跡は北側に平坦地があり、標高約304mの高台上に南北に細長く、北に2郭、中央に主郭、南に出郭があり、土塁が残る。
堀切を経て、約300m南に白米(はくまい)城跡(地図)がある。標高312.3mの主郭は20mほどの円形の平坦地で、中央に「白米城址」の石碑が建てられている。草地の主郭からの眺望は四方が開け、抜群である。
北側より回り込んで東に行くと、堀切とそれに続く竪堀が残り、東に細長い2郭がある。
阿坂城跡(椎木城跡と白米城跡)附・枳城跡・高城跡として、昭和五十七年(1982年)4月7日、国の史跡に指定された。
もう一つの登り口は、大阿射加神社南の道を西へ行き、伊勢自動車道の「白米城橋」を渡り、林道を約750m行った終点に登り口があり駐車スペースがある。途中に「高城(たかじょう)跡」(地図)への入口標識がある
山見集会所(松阪市小阿坂町3619)より西へ伊勢自動車道を潜って行った枳(からたち)城跡(地図)がある。
【歴史】 建武二年(1335年)に北畠親房が顕家・顕信・顕能の3人の息子を伴って伊勢国に入った時に南勢(伊勢国南部)にいくつか築いた城の内のひとつが阿坂城であると言われている。
阿坂城の史料上の初出は、文和元年(1352年、正平七年)十月二十三日(11月30日)付けの『鷲見加々丸軍忠状』であり、北朝軍である土岐頼康の軍に鷲見氏が加勢して功績を挙げたことを記した文中に登場する。
その後、応永二十二年(1415年)春に北畠満雅がこの城から挙兵した。明徳の和約を守らず、称光天皇が即位したことが理由であった。
北畠満雅には元南朝方の勢力であった大和・紀伊・河内の武士がが味方し、幕府方は一色義貫(よしつら)を総大将とし、土岐・京極両氏を送り込んで応戦、満雅側は籠城戦に入った。
この時のエピソードが「白米城」の名の由来となった。『満済准后日記』によれば、応永二十二年五月十五日(1415年6月21日)に城は陥落したという。
その後、文明十年(1478年)、阿坂城のある桝形山の麓に北畠氏の菩提寺・浄眼寺が北畠材親(きちか)の援助によって建立された。これにより、麓の居館(浄眼寺)と詰めの城(阿坂城)という根小屋式山城を模したような形ができ上がった。
白米城伝説の後、城に直接関係する記録が途切れるが、永禄八年(1565年)と天正八年(1580年)に記録が復活し、そこには大宮入道含忍斎が城主を務めるとある。
永禄十年(1567年)には織田信長方の滝川一益による再三の攻撃をはね付け、堅牢なる城との名を世に広めた。
そして永禄十二年八月(1569年9月)、信長軍は阿坂城を包囲、信長軍は降伏勧告を行うも大宮入道含忍斎は応じず、木下藤吉郎(豊臣秀吉)による巧妙な策によってようやく開城し、そのまま廃城となった。
この時、北畠軍の大宮大之丞吉行は木下藤吉郎に強弓を引き、秀吉は生涯初にして唯一の戦傷を左脇(左腿とも)に受けたとされる。
阿坂城攻めは、大河内城の戦いの前哨戦との位置付けで、それまで大きな手柄を挙げていなかった秀吉に武功を挙げさせるために信長は藤吉郎を送り込んだという。『ウィキぺディア』より。