石橋城 (いしばしじょう)
所在地 愛知県新城市作手清岳寺屋敷3 2014.12.9
石橋城 (いしばしじょう)
所在地 愛知県新城市作手清岳寺屋敷3 2014.12.9
慈昌院
慈昌院・城址碑・切岸
土塁・祠(右端上)
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 国道301号線「道の駅つくで手づくり村」[マップコード681 155 265*66]の道路向かいの慈昌院(表記番地)敷地が城跡である。
敷地は40m×40mの広さがあり、北から西にかけて土塁、空堀が残っている(地図)。墓地の上の土塁上に、奥平弾正宮の祠が祀られている。
【歴史】 奥平二代貞久の次男・弾正久勝が最初の城主で、地名に因んで石橋氏を称し、三代奥平貞昌の家臣となった。
久勝の子・弾正繁昌は、天文六年(1537年)九月、主君への謀反が露見し、4代貞勝の命を受けた土佐定雄(さだかつ)に、屋敷を攻められて敗北、郎党40人余が討死した。
死骸は一穴に埋められ奥平弾正宮と呼ばれている。現在でも西側土塁に石祠を確認することが出来る。
後年になり当山の第二世徳岩明和尚が繁昌と一族の死を哀れみ、亀山城主貞勝に願い出て弾正屋敷をもらい受けて寺地とし、「石橋山慈昌院」とした。