三仏寺城 (さんぶつじじょう) (県の史跡)
最寄地 岐阜県高山市三福寺町1422 2018.11.25
三仏寺城 (さんぶつじじょう) (県の史跡)
最寄地 岐阜県高山市三福寺町1422 2018.11.25
登城ルート(緑線は車道)
歓喜寺
歓喜寺より遊歩道入口・城址碑・説明板
出丸・説明板
中間の郭(出丸方向)
大手の段郭
本丸切岸
本丸跡標柱
東側尾根の浅い堀切
三仏寺城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【感想】 宮川に注ぐ大八賀川右岸の標高669.6mの山頂に築かれている。本丸の南西に2つの細長い郭と南西端に出丸が配置された連郭式の城となっている。
東約2kmに鍋山城、南西約4kmに松倉城、南約2kmに高山城がある。
切岸を主にした城郭で、草木も少なく、眺望もよく高山市街が眼下に望める。
【案内】 歓喜寺(表記番地)西に駐車スペースがあり、城址碑、説明板が建てられている。
そこからから整備された遊歩道があり出丸まで通じている(地図)。出丸には石碑、説明板が建てられている。そこから屈曲した細長い2つの郭を経て、150mほど北東に本丸がある。本丸には「三仏寺城本丸跡・飛騨源平攻防の地」の標柱が建てられている。東側尾根に2段になって浅い堀切がある。
昭和四十六年(1971年)9月14日、岐阜県の史跡に指定された。
【歴史】 築城年代は定かではないが、平安時代末期に築かれたと云われる。 保延・永治(1135~42年)の頃には平時輔が飛騨守として在城し、3代景則の頃から飛騨は平家の領国となった。
4代景家は4人の息子と共に京へ上っていたが、治承五年(1181年)木曽義仲の軍に攻められ落城した。
鎌倉時代には、藤原朝高、畑六郎左衛門、藤原安高が在城した。
大永年間(1521~28年)頃、畑安高は三仏寺城を三木直頼に明け渡し、江名子の畑館に移った。
天文十六年(1547年)三木氏の家臣平野右衛門尉が大八賀郷を横領して城主となった。
その子平野安室の時に鍋山城を築いて移り、三木直弘が城主となった。しかし、永禄七年(1564年)武田信玄の軍に攻められると、直弘は自ら城に火を放ち桜洞城へ逃げた。以後三仏寺城は廃城となった。