先達城 (せんだつじょう)
所在地 長野県諏訪郡富士見町境2763 2015.9.13
先達城 (せんだつじょう)
所在地 長野県諏訪郡富士見町境2763 2015.9.13
城址碑・説明板
説明板
常昌寺
城址碑
鳳凰山大権現
先達城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 県道17号線西の先達公民館(表記番地)としても利用されている常昌寺(鳳凰山)が本丸で、一段下がった南側に駐車場が用意されている[マップコード218 170 232*40] 。
寺の東側の墓地の先、最高所に鳳凰山大権現の石祠がある。北は崖となり、東は堀跡を拡幅した県道17号線と思われる。
公民館の前は石垣で、入り口の横に「旧蹟先達城趾」の石碑が建てられている。又駐車場入り口に「先達城址」の石碑、説明板が建てられている。
平成十一年(1999年)3月、富士見町の史跡に指定されている。
【歴史】 享禄元年(1528年)八月、武田信虎は諏訪攻略の兵を甲信国境付近に進めてきた。
『神使御頭之日記』に「此年甲州武田方ト執合んニ付テ、八月廿二日ニ武田信虎堺ヘ出張候テ木ノ郷ノ内小東ノ新五郎屋敷ヲ城ニ取立候、同廿六日青柳ノ下ノシラサレ山ヲ陣場トシテ、安芸守頼満・嫡子頼隆対陣ヲ御取候テ」とあり、続いて同晦日に神戸・堺川で合戦になった事が記されている。
地元の伝承によれば、ここ鳳凰山常昌寺の敷地には武田信玄の家臣、多田淡路守常昌の居館があった。
常昌は天正三年(1575年)の長篠の合戦で討ち死にしたという。境内の墓地には、天保年間(1830~44年)頃長篠の戦場跡より写し取ってきたという墓碑があって、表に「知海常通居士位」裏に「三州長篠戦合天正三年五月四日夜 陣中右淡地三八郎常政苑」と刻まれている。
館跡は鹿之沢川左岸の尾根筋上に立地し、西北側が急峻な谷で画される一方、南東側は緩傾斜となっている。
現在城跡としての遺構は特に認められないが、北に広見木戸、南に南木戸の名を残し、それぞれに沿って二軒の「広見の家」と「南の家」がある。また寺を取り巻くように「城の家」という呼び名の家が四軒かぞえられる。明治七年の先達村絵地図には字城と示されている。
先達城址が「城」であったことは、これらの呼称からも確かと云える。こんにち「小東村ノ新五郎屋敷」はその場所を特定することができない。『富士見町教育委員会説明板』より。