弓庄城 (ゆみのしょうじょう)
最寄地 富山県中新川郡上市町舘182 2018.6.14
弓庄城 (ゆみのしょうじょう)
最寄地 富山県中新川郡上市町舘182 2018.6.14
駐車場横の説明板
弓の里歴史文化館
配置図
本丸跡碑(畦道の奥)
本丸跡碑・由来碑
本丸跡
弓庄城本丸跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 本丸碑の建つ本丸の北に、二の丸、三の丸と配置され、南北約600m東西約150mに及ぶ範囲が城跡で、約2万㎡の本丸跡が上市町の埋蔵文化財包蔵地に指定されている。遺構は無く水田が広がっているのみである。
【案内】 「弓の里歴史文化館」(表記番地)の北側駐車場横に説明板が建てられている[マップコード144 313 448*56]。
西約50mの田の一角に「弓庄城本丸跡」の石碑、由来碑が建てられている。
本丸北西側に位置する道路に古い説明板が建てられている(地図)。
【歴史】 相模国土肥郷を本貫地とする土肥次郎実平の5代目実綱が、滑川の堀江に入部し、上杉謙信の庇護を受け新川郡一帯を領する戦国領主に成長した。
実綱から4代後の政道がここに城を築き、政忠、政良(政繁)の3代が居城とした。
天正六年(1578年)上杉謙信が死去すると、越中に侵攻する佐々成政、柴田勝家らの織田勢に従うことになった。
天正十年(1582年)六月、織田信長が本能寺の変で討たれると再び上杉勢に属した為、佐々成政の攻撃を受けることとなった。
土肥氏は籠城したが、上杉勢の拠点魚津城が落城したため、上杉勢の支援を受けられず孤立した。
天正十一年(1583年)佐々成政と和議を結び、城を明け渡し越後に逃れた。その後、上杉軍と共に奪還を図ったが失敗し、越後に在住したという。