木舟城 (きふねじょう) (木船城・貴船城) (県の史跡)
所在地 富山県高岡市福岡町木舟 2014.10.25
木舟城 (きふねじょう) (木船城・貴船城) (県の史跡)
所在地 富山県高岡市福岡町木舟 2014.10.25
木舟城跡碑
城跡標柱
西側・説明板
説明板
案内板
木舟城跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 貴布祢神社の北西の交差点南西に駐車場があり、横に木舟城跡がある[マップコード 122 680 241*10 ]。
東に高岡砺波道路の福岡IC、建設中の北陸新幹線があり、北に北陸本線が通っている。
土塁の上に芝が植えられ、「木舟城跡」の石碑と標柱、説明板が建てられている。周辺には散居村が見られる。主郭の北と南にも郭を構え、三重の堀に囲まれていた。更に周囲は湿地帯であった。
城下町は東西1.2㎞、南北1km程度であったとみられる。石黒成綱が防衛と物資補給の基地として下屋敷を構えていた場所に宝性寺が建っていたが、その庭園は下屋敷時代のものであるとされ、「左近の庭」と名付けられている。
昭和四十年(1965年)10月1日、富山県の指定史跡となった。
【歴史】 寿永三年(1184年)、木曽義仲に従って前年の倶利伽羅峠の戦いで活躍した越中国の豪族、石黒光弘によって築かれ、以後石黒氏が治めた。
文明十三年(1481年)八月、越中国福光城主・石黒光義が医王山惣海寺と組んで越中一向一揆勢の瑞泉寺(井波城)門徒らと戦うが、敗退(田屋川原の戦い)した。
光義ら一族は安居寺で自害し石黒氏本家は衰退した。その後徐々に木舟石黒氏が勢力を伸ばしていった。
天文年間(1532~55年)、木舟城主・石黒左近将監が越中国安楽寺城を攻めて城主高橋與十郎則秋を討った。
永禄九年(1566年)、城主石黒成綱が一向一揆方の小倉六右衛門が拠る越中国鷹栖館並びに越中国勝満寺を攻め、これらに放火した。
天正年間(1573~92年)、石黒成綱が越中国中田城、越中国柴田屋館(天正七年(1579年)頃か)を攻めたとされる。
天正二年(1574年)七月、上杉謙信に攻め落とされて臣従した。天正五年(1577年)十二月二十三日に書かれた『上杉家家中名字尽』に石黒左近蔵人(成綱)の名が見える。
天正六年(1578年)、上杉謙信の死去を契機に成綱は上杉家を離反して織田信長方に付いた。
天正八年(1580年)二月、天正九年(1581年)四月と二度にわたって一向一揆勢の重要拠点で、当時上杉方だった安養寺御坊(勝興寺)を焼き討ち、結果焼亡させているが、その直後に勝興寺の訴えを聞いた上杉景勝配下の吉江宗信によって木舟城は攻め落とされた。
因みに同年七月、成綱を始めとする石黒一門30人が信長に佐和山城へと呼び出されたが、その意図が彼らの暗殺である事に気づいた一行は逃走を図るも、近江国長浜で丹羽長秀配下の兵に追いつかれて皆殺しに遭い、豪族としての石黒氏は滅亡している(成綱の子は後に加賀藩に仕えている)。
同年七月、織田方の圧力に抗し切れず吉江宗信が木舟城から海路を使って退去した。
結果木舟城は織田方の手に落ち、佐々成政の支配下に入り、重臣佐々平左衛門が入った。
天正十二年(1584年)、佐々軍1万5千名、能登国末森城攻略のため木舟城を出発するも撤退した(末森城の戦い)。
天正十三年(1585年)五月、木舟城主佐々平左衛門が守山城主・神保氏張、井波城主・前野勝長と共に、前田方の今石動城を攻めたが、守将の前田秀継、利秀親子によって撃退された(今石動合戦)。
同年八月、豊富秀吉の北国征伐(富山の役)により成政が降伏した(なお、この時に成政は大した抵抗もせずに降伏したと云われているが、成政軍の一部が木舟城辺りで夜討ちを仕掛け、前田軍に数十人の死傷者が出たという記述も在る。成政降伏後に前田軍が慰霊祭を行ったとされるが、その時の死者に対して行なわれたものと思われる)。
木舟城は前田氏の支配下に入り、前田利家の末弟である秀継が城主となり、4万石を与えられた。
同年十一月十一月二十九日、天正大地震発生し、これにより城の地盤が3丈(約9m)も陥没、木舟城は倒壊して秀継夫妻は多くの家臣等と共に圧死した。遺体が見つかったのは3日も後の事だったと云う。また城下も壊滅的な打撃を受けた。遺領は秀継の子である前田利秀が継いで木舟城に入った。
天正十四年(1586年)五月、利秀が上洛途中の上杉景勝を木舟城にて迎えているが、震災の痛手からの立て直しは困難であるとの判断から、その年の内に廃城となった。
行政機能は今石動城に移され、城下の民は四散した。小矢部市の今石動城下に残る糸岡町、鍛冶町、御坊町、越前町などの(旧)町名は木舟城下にあった町名に由来していると云う。
慶長十四年(1609年)に高岡城が築かれるとゆかりの町人が移住し、今日に木舟町の名を遺している。