勝山城 (かつやまじょう) (落水城)
最寄地 新潟県糸魚川市青海4489 2014.10.4
勝山城 (かつやまじょう) (落水城)
最寄地 新潟県糸魚川市青海4489 2014.10.4
登城ルート(緑丸は西曲輪)
勝山城登り口・登山口石碑
主郭虎口
主郭跡
主郭跡・祠・土塁
説明板
西曲輪虎口
展望所・西曲輪・土塁
勝山城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高290m】
【案内・感想】 国道8号線の青海川橋を過ぎ西に1㎞行った、表記番地のドライブイン「勝山」(閉店)の斜め向かいに「勝山城跡登山道」の標識があり案内板が建てられている[マップコード314 333 851*77](地図)。
砂防ダムの西を尾根伝いに急坂を登る。約50分、ロープ、チェーンを頼りに東西に伸びる稜線を登ると勝山頂上(標高328.3m比高約290m)の主郭跡に着く。
途中や本丸跡から糸魚川市街や海岸が眼下に望める。本丸には「案内板」が建てられ、春日山神社より勧請したとされる祠がある。西に堀切があり50m先に展望所がある。
【歴史】 平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)時に木曽義仲の軍勢を阻止するべく、地元の豪族が築城したと云われている。
戦国時代になると春日山城を本拠に越後を治めていた上杉謙信が越中からの侵攻を防ぐ要として落水城に家臣を配置し、防衛に当たらせた。
館は約1500m東の青海川左岸にあったと云われ、須賀盛能、秋山定綱、荻田主馬らが城将を務めた。
謙信の死後、上杉景勝の代になると織田信長の家臣である佐々成政の軍が上杉領侵攻を狙い、魚津城、松倉城を攻略して来たため、景勝は急遽、落水城を整備し、自国領の絶対国防線の最後の砦とした。その際に勝山城と名を改めたという。
天正十三年(1585年)に豊臣秀吉が佐々成政を滅ぼした際に、上杉景勝に会談を申し入れた。これを受けて上杉景勝は腹心の直江兼続を伴い、勝山城で豊臣秀吉及びその家臣の石田三成と会談を行った。
このときに羽柴と上杉が同盟を結ぶ合意がなされたとされ、後世にはこの会談を『落水盟約』と伝わっている。
慶長三年(1598年)に上杉景勝が越後春日山から会津120万石へ転封となった際に、廃城となった。