十七条城 (じゅうしちじょうじょう) (船木城) (市の史跡)
所在地 岐阜県瑞穂市十七条70 2014.11.26 2015.5.2
十七条城 (じゅうしちじょうじょう) (船木城) (市の史跡)
所在地 岐阜県瑞穂市十七条70 2014.11.26 2015.5.2
熊野神社
説明板
春日局ゆかりの地
本丸跡・堀跡
本丸跡
十七条城跡碑
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 熊野神社(表記番地)鳥居脇に説明板が建てられている[マップコード28 544 300*06] (地図)。
コンクリート製品工場を挟んだ南東約140mに防風林の中の微高地に、本丸跡とされる民家がある。
地北東の防風林の中に(近所の農家の人に教えてもらったが、道路から見えるようにして貰いたい)立派な石碑が建てられている[マップコード28 544 213*63](地図)。
植込みの中に堀が確認できるが、説明板は無い。瑞穂市の指定史跡となっている。
【歴史】 『新撰美濃志』によれば、南北朝時代初頭に土岐頼貞の子・舟木頼胤(土岐頼貞の弟・船木頼重と同一人物とも言われる)によって築城された。
その後、二階堂氏や仙石秀豐、和田利詮が居城とした時期を経て、享禄年間には林正長が城を改築している。
正長の子・林玄蕃は永禄五年(1562年)に織田信長と斎藤龍興の間で起きた軽海の戦いで戦死したため、弟の林正三が後を継ぎ、天正六年(1578年)に逝去するまで城主を務めた。
正三の子市助(正成)は元亀二年(1571年)この城で生まれ、成人した後、大垣曽根城主・稲葉重通の養子になって稲葉正成と改称し、十七条城で十七条藩・1万石を治め、斎藤福(後の家光の乳母・春日局)と婚姻した。
その次男・稲葉正定は文禄四年(1595年)尾張藩へ仕え、やはり十七条村で1千6石を治めた。
正定の孫の代に嗣子がなく、延宝三年(1675年)に家が断絶、城は廃城となった。