長篠城 (ながしのじょう) (末広城・扇城) (国の史跡・日本100名城46)
所在地 愛知県新城市長篠市場22‐1 2011.9.11 2014.6.14
長篠城 (ながしのじょう) (末広城・扇城) (国の史跡・日本100名城46)
所在地 愛知県新城市長篠市場22‐1 2011.9.11 2014.6.14
帯曲輪・空堀
空堀・二の丸
本丸北の空堀
本丸跡
長篠城址碑
長篠城址碑
城藪稲荷跡地
野牛曲輪
長篠城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 国道151号線(伊那街道)の「長篠城址」交差点の南に築かれている[マップコード301 007 406*63]。交差点南西100mの帯曲輪跡に「長篠城址史跡保存館」(表記番地)があり、徳川・織田連合軍と武田軍の長篠合戦の様子や鳥居強右衛門(すねえもん)の武勇伝が展示されている。
その南が空堀、土塁で囲われた本丸跡で北側高台上に「長篠城址」石碑が建てられている。その先に、城藪稲荷跡地(大通寺に移転)の物見と思われる台地がある。
城跡を分断して通る飯田線の南東、豊川と宇連川の合流する断崖の上が野牛曲輪であり、本丸の北に大空堀が良く残り、その北が二の丸、巴城郭、大手郭があった。西の対岸に鳥居強右衛門の磔死ノ碑があり新昌寺に墓がある。
昭和四年(1929年)12月17日、国の史跡に指定された。 平成十八年(2006年)4月6日、日本100名城(46番)に選定された。
【歴史】 永正五年(1508年)今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城、元成とその子孫長篠菅沼氏の居城であった。
元亀二年(1571年)徳川家康に服属していたが、武田信玄の三河侵攻の一端で天野景貫に攻められ、陥落は免れたが、元成の玄孫・菅沼正貞は菅沼総家の説得で武田軍に屈した。
元亀四年(1573年)武田信玄の病の悪化により甲斐国へ撤退、信玄は途中で死去した。その隙に家康に攻められ正貞は開城退去した。武田軍の再侵攻に備え家康により拡張改修された。
天正三年五月二十一日(1575年6月29日)信玄の後を継いだ勝頼は1万5千の兵を率いて、奥平信昌(貞昌)が500人の兵で守る長篠城を囲み長篠・設楽が原の戦いが始まった。
鳥居強右衛門の脱出で徳川の援軍を得て勝頼軍は敗退し、武田氏滅亡の端緒になった。
奥平信昌は新城城を築き、長篠城は損壊激しく廃城となった。