飯久保城 (いいくぼじょう) (飯窪城・伊窪村山城・伊久保城)
最寄地 富山県氷見市飯久保1406 2014.10.26
飯久保城 (いいくぼじょう) (飯窪城・伊窪村山城・伊久保城)
最寄地 富山県氷見市飯久保1406 2014.10.26
登城ルート(緑線は車道)
八幡神社鳥居
説明板
桝形虎口
土塁
竪堀
涌水地
主郭跡
見張台
飯久保城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高60m】
【案内・感想】 市立十三中学校(表記番地)より南に200m、右折し西に150m行くと八幡神社鳥居がある[マップコード649 189 236*16](地図)。
神社の石段前を直進し左に登って行く。途中桝形虎口の大手口があり、土塁や空堀が残っている。その先に湧水地(枯渇)がある。
主郭虎口を登ると東西に細長い平坦地があり背後に比高60mの見晴し台(櫓台)を備えた大規模な土塁があり、その奥は南北に深い堀切となっている。東には尾根の先端に向かってもう一つの郭が在る。
【発掘調査】 平成十四年度に行われた発掘調査で、主郭から土師器・越前焼・中国製染付・茶臼などが出土している。
【歴史】 城主と伝えられる狩野氏は、飯久保城のほか惣領砦、鞍骨城などを築き氷見南部地域を支配した。狩野氏は元々、加賀国の在地領主であった。
鎌倉時代には加賀国大聖寺城を築いてこれに拠っており、中先代の乱では宮方として活躍している。
その後は加賀国守護富樫氏の家臣であったが、長享二年(1488年)に発生した加賀一向一揆によって当主の富樫政親が敗死し、加賀国の支配権は富樫氏から一向一揆勢力へと移行した。
狩野氏はこの難を避けて越中国氷見へと落ち延びて定住したと云う。飯久保城の正確な築城年代は不明だが、これ以降と考えられる。
永禄三年(1560年)頃、狩野中務丞良政は人質を差し出して越中守護代の富山城主神保長職に属し、同四年には光久寺に寺地を寄進している。
その後は越中を支配した上杉謙信、佐々成政に属した。天正十三年(1585年)の富山の役で佐々成政が豊臣秀吉に降伏したときに、狩野氏は城を退去し、飯久保城は廃城となったと考えられる。
狩野氏の出自や、城退去後の動きについては不明な点が多いが、宝永五年(1708年)に江戸で浪人していた子孫が、富山藩に仕官している。