清洲城 (きよすじょう) (清須城)
所在地 愛知県清須市朝日城屋敷1‐1 2012.5.21 2014.6.14
清洲城 (きよすじょう) (清須城)
所在地 愛知県清須市朝日城屋敷1‐1 2012.5.21 2014.6.14
模擬天守・塀
三重四階模擬天守
大手橋・大手門
織田信長公銅像
清洲ふるさとのやかた
本丸西側石垣
清洲城跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 東海道新幹線で城跡は分断されている。「清洲ふるさとのやかた」の北に駐車場が用意されている[マップコード4 461 729*18]。
土塁や石垣が一部残り、東海道新幹線の南の清洲公園(地図)に織田信長公銅像がある。
東の五条川に掛けられた朱塗りの橋を渡ると「ふれあい郷土館」として、往事を想像して三重四階天守(表記番地:1989年造)や大手門が復元されている。
敷地は枯山水石庭風の庭となり築地塀がめぐらされている。
【歴史】 応永十二年(1405年)尾張・遠江・越前守護の管領・斯波義重によって、尾張守護所である下津城の別邸として築かれた。
戦国時代、文明十年(1478年)尾張国守護代の織田敏定が入り、尾張下四郡を支配した。
尾張の上四郡を支配していた岩倉の織田氏と尾張下四郡を支配していた清洲の織田氏が争う中、弘治元年(1555年)那古野城主・織田信長は守山城主・信光と共に清洲城主・織田信友を攻め滅ぼし、信光は信長に譲られた那古野城へ、信長は清洲に入城し尾張の拠点とした。
弘治二年(1556年)に清洲城主の織田信光が家臣のの坂井大膳により殺された際、織田信長は家臣を集めて坂井を攻め、小坂正氏もこれに参加した。
対する坂井の軍勢は清洲城の南西(現在のあま市七宝町桂深田)で織田軍を待ち伏せし、これを不意に襲撃した。正氏は、周囲が田畑だったためにぬかるみに足を取られ、討死した。
信長は、永禄三年(1560年)桶狭間の戦いで勝利し、美濃、近江を攻略、武田氏を亡ぼし、着々と天下統一を進めていたが、天正十年(1582年)六月、本能寺の変により夢半ばで死去した。
清洲会議で、次男・織田信雄(のぶかつ)が後を継いで城主となった。
天正十八年(1590年)小田原征伐の後、豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らい、除封され、豊臣秀次の所領に組み込まれた。
文禄四年(1595年)福島正則が城主となった。関ヶ原の戦いの際は徳川方の後方拠点として利用され。
戦後安芸に転封した福島正則に代わって家康の四男松平忠吉が東条城より入るが、関ヶ原の戦いで負った傷がもとで病死すると、慶長十二年(1607年)家康の九男徳川義直が入城し、清洲藩の拠点となった。
慶長十四年(1609年)家康によって清洲から名古屋に遷府が命じられ、慶長十五年より清洲城下は名古屋城下に移転(清洲越し)され、清洲城の資材は名古屋城の築城に使われた、
名古屋城御深井丸(おふけまる)辰巳櫓が清洲櫓と呼ばれている。慶長十八年(1613年)名古屋城完成に伴い、廃城となった。