小島城 (おじまじょう) (木戸城)
最寄地 岐阜県揖斐郡揖斐川町春日六合526−3 2014.12.10
小島城 (おじまじょう) (木戸城)
最寄地 岐阜県揖斐郡揖斐川町春日六合526−3 2014.12.10
登城ルート(緑線は車道)
曲輪B32・城址碑
説明板
堀切A03
曲輪
曲輪C17
小島城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高100m】
【感想・案内】 県道32号線の表記番地の町道を西へ、上ヶ流集落へ向かう道を約1.7㎞行くと、天空の茶畑がある。 三叉路に「小島城跡東山公園」の標識があり、北東に登ると、菩薩園参詣用駐車場がある[マップコード242 495 362*55](地図)。
観音像などの祀られた「上臈谷菩薩園」の上段に「小島城阯」の石碑、由来説明板が建てられ、四阿に「曲輪B32」と表示されている。
その東より登るとすぐ曲輪が段々にあり、堀切、竪堀が認められ比高約100mの最高所の曲輪は平坦で、その前に大きな曲輪が3ヶ所ほどある。城は最も高い地点に物見櫓があり、その下の三段の平地に主郭があったとされる。
小さい曲輪を含めると山腹に100を超える曲輪が在る。
はじめ場所すら判からなく、「揖斐川歴史民俗資料館」(揖斐川町上南方901-5)に赴き館長に丁寧に教えて頂いた(感謝)。
【歴史】 築城年代および創築者ともに不詳だが、正和年間(1312~17年)頃には南朝方の西尾右京亮、堀部太郎兵衛尉が在城していたとされる。
土岐頼貞の子・土岐頼清が分家して小島に移住し、その子頼康は、延元二年(建武四年・1337年)小島城を攻略し、西尾氏は遁れ、堀部氏は捕えられた。土岐頼康は小島城を改築して居城とした。
康永元年(1342年)に頼康は土岐氏宗家を継ぎ、文和二年(1353年)後光厳天皇が美濃に逃れて来た時には、供奉して小島頓宮を造営した。
頼康は無嗣のため甥の土岐康行を嗣子にした。元中四年(1387年)十二月二十五日頼康が小島城内で没し、瑞巌寺に葬られた。
元中五年(1388年)と翌年足利三代将軍義満の室町幕府軍により小島城は攻められたが持ちこたえた。
元中七年・明徳元年(1390年)三月、土岐康行の小島城は京極高秀・土岐頼世(頼忠)らの室町幕府軍五万騎に攻められた。その際康行は城内にいた婦女子270余人を殺め、その後討死し、落城した(土岐氏の乱)。康行以下19の首級は京都に送られ、義満の首実験に供された。城内に上臈谷と云う谷があり数多の婦女子の斬首されたところと伝わる。
戦後、幕府軍側にいた土岐頼忠が守護となって新たに本郷城を拠点とし、小島城は廃城となった。