新保山城 (しんぼやまじょう) (霞美ヶ城)
最寄地 福井県小浜市新保29-5 2017.8.26
新保山城 (しんぼやまじょう) (霞美ヶ城)
最寄地 福井県小浜市新保29-5 2017.8.26
登城ルート
遠景(水色のピークを経て黄色へ登る)
入口
居館跡・フエンス扉
堀切1
堀切2・段郭
井戸
主郭西側段郭
主郭・三角点
主郭北西切岸
新保山城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高260m】
【感想】 小浜市新保地区の標高287mの山頂に主郭があり、急峻な尾根に堀切、階段状の郭、井戸跡、土塁などが残っている。
直登する尾根は、テープもなく方向を見失わないように登ったが、帰りは滑ってしまった。最初のピークから頂上までは、堀道があり多少安心して登れる。かっての城主もこんなところを登り、苦労したのかと偲ばれる。
【案内】 新保山南麓に沿う道路の表記番地西に登り口がある[マップコード380 279 649*01](地図)。西に約100mの付近が広く駐車スペースがある。
入口より少し行くと、左側に居館跡があり畑となっている。その先に獣除けフエンス扉があり、右側に登って尾根を直登する。
急な尾根で滑りやすいが、一歩一歩真っ直ぐ登ってゆくと、南西のピークに着く(地図) 。帰りのための目印を覚えておくとよい。
10mほど東に下り、再び登ると堀道が現れ、堀切1、堀切2を経て、井戸跡が残り、4段ほどの段郭を登ると頂上に着く。
主郭は広く、三角点があるが標柱などはない。北東に大きな堀切、郭があるが、疲労と日没近く早々に帰途に就いた。
【歴史】 築城時期など定かでないが、室町時代若狭守護武田氏の被官・粟屋氏が築いたと考えられる。
天文七年(1538年)粟屋元隆は守護武田元豊に反旗を翻したが、天文十一年(1542年)年) 元豊に攻められ討死した。
その後、若狭守護武田信豊の弟信高(元度)が、新保山城主となり信豊を支えた。
弘治二年(1556年)信豊は3男武田元康(信由)へ家督を譲ろうとしたため、信豊と長男義統の対立により内紛状態となり、信豊を支持した信高が同年討死した。
信高の没後、信豊の次男武田信方が新保山城主となった。
元亀元年(1570年)四月織田信長が若狭へ進出すると、武田氏被官の多くが、これを出迎え朝倉攻めの先陣を務めたが、信方は朝倉方にいた武田元明(義統の子)の命で武藤友益・粟屋右京亮などと結束して反信長勢力となり、織田方の山県孫三郎の籠るガラガラ城を攻め落とした。
しかし、天正元年(1573年)越前の朝倉氏が滅亡し若狭武田氏も没落すると足利義昭の備後国鞆へ逃れたと云われる。