屋代城 (やしろじょう)
最寄地 長野県千曲市屋代2011 2014.7.15
屋代城 (やしろじょう)
最寄地 長野県千曲市屋代2011 2014.7.15
登城ルート
成田山不動尊石段
成田山不動尊
矢代神社・四阿
堀切
堀切・土塁
二の郭・主郭(奥)
主郭南西石垣
屋代城 主郭跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高90m】
【案内・感想】 成田山不動尊(表記番地)の石段前に駐車[マップコード177 735 265*57](地図)でき、石段を登り、不動尊社殿の裏の御嶽神社横を登ってゆく。
墓地を経て矢代神社の建つ広い曲輪に出る。四阿が、眼下に屋代市街が望める。「忠魂碑」の横を南に登ると、堀切・土橋があり、曲輪があり、更に堀切・土橋を登ると北城に着き、「御嶽神社旧蹟地」の石碑が建てられている。
その南は鞍部の低地となり、再び登り標高458mの一重山頂上が本城に当たる南城であり、最高所に主郭、少し下がって二の郭がある。南城には説明看板があり土塁や石垣が残り、電波塔が建てられている。東西35m南北70mほどである。
南に下って行くと配水タンクや墓地のある低地に出る。成田山不動尊より歩行距離約1㎞である。
【歴史】 村上氏の一族(代官)であった屋代氏の詰城であった。居館は城の内遺跡の位置にあったとされている。
応仁元年(1467年)より文明九年(1477年)までの「応仁・文明の乱」の頃、村上氏の一族で代官として活躍していた屋代氏が海野氏、井上氏と抗争しその必要性から築城されたと考えられる。
天文二十二年( 1553年)、屋代正国(政国)は近隣の塩崎氏や雨宮氏などと共に真田幸隆らの調略に応じて武田氏に臣従した。このため村上氏の葛尾城は落ち、村上義清は塩田城に逃走した。5度12年に渡る川中島の戦いの引き金となった。
その後、屋代氏は武田氏の命により永禄二年(1559年)に荒砥城に領地替えとなり移った。これは弘治元年(1555年)の第二次川中島の戦いの後、越後上杉氏との前線が村上氏の旧領埴科郡から川中島まで北上したことや、永禄三年(1560年)に海津城が築城されている事、さらには長沼城が北信の本拠地として整備されるなど状況の変化によって屋代城の相対的な価値が下がり、この時期に廃城になったと思われる。
しかし屋代氏が荒砥に移った後に一時は雨宮氏が拠城としたとも云われている。