松倉城 (まつくらじょう)
最寄地 岐阜県各務原市川島松倉町2232-1 2014.11.25 2016.10.24
松倉城 (まつくらじょう)
最寄地 岐阜県各務原市川島松倉町2232-1 2014.11.25 2016.10.24
神明神社
木曽川・各務原大橋
左岸堤防の説明板
説明板
樫大神
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 今は木曽川左岸堤防工事で遺構は失われたが、城主坪内氏の墓の横に樫の木があり、水陸交通の目印となっていたという。戦乱のあった場所とは思えないほど長閑であった。
【案内】 木曽川に架かる「各務原大橋」の南より堤防道路を250mほど行った、木曽川左岸堤防の南にあり説明板、明治時代に立て直された「樫大神」がある[マップコード28 447 077*27](地図)。即ち、堤防工事で遺構は消滅した。
西方約1㎞にある神明神社(表記番地)の境内の神社由来看板に「永禄年間(1558~1570年)、坪内美濃守の産土神で、松倉城築城の際、鬼門(艮・北東)に相対する神社として殊のほか崇敬のあった神社でもある」云々と記されている。西70m付近の森の中にも神明・秋葉神社がある(地図)。
【歴史】 戦国時代、加賀国の富樫氏の庶流坪内頼定が尾張国に来て犬山城主織田信康(信長の叔父)に仕えた後、天文十六年(1547年)初代松倉城主となり、松倉を領地とした。
信長の死後、4代目城主坪内利定は羽柴秀吉と不和となり、天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは徳川家康側に付いた。しかし、池田恒興の軍勢に攻められ、松倉城に自ら火を放ち金山城に逃げた。暫くして徳川家康に仕え、再び松倉城に入った。
慶長五年(1600年)、坪内利定は徳川家康の会津征伐に鉄砲隊を率いて参戦した。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、鉄砲隊を率いて功績を挙げた。この功績により、美濃国羽栗郡、各務郡20村、6,500石を治める大身旗本となり、同年、拠点を松倉城から各務郡新加納の新加納陣屋に移っため、松倉城は廃城となった。