中野城 (なかのじょう)
最寄地 山梨県南巨摩郡富士川町平林3337-11 2015.8.23
中野城 (なかのじょう)
最寄地 山梨県南巨摩郡富士川町平林3337-11 2015.8.23
説明板
登城ルート(緑線は車道)
登り口・説明板
虎口
郭1・説明板
郭1・土塁
3郭への尾根道
展望台
北端の郭3
中野城 郭1跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高140m】
【案内・感想】 県道108号線より林道大久保平線に入り、南アルプス市と富士川町の境目のやや北に登り口があり、説明板が建てられている[マップコード167 049 051*38](地図)。林道を南に約400mゆくと「増穂ふるさと自然塾」(表記番地)駐車場がある。
登り口より、緩やかな遊歩道があり、一つの山頂を越えて下り、再度上り詰めると、歩行距離約900m(30分)で標高1020.6m比高約140mの城山頂上に郭1がある。郭1西には土塁が残り、説明板が建てられている。
郭1の南側25m下に郭2がある。郭1より北に細い尾根をゆくと展望台があり、眼下に甲府盆地の家々が望める。さらに100m北に虎口があり、その先に40m×30mの郭3(地図)がある。東側の急崖は一部崩落しているので、注意を要する。郭3の北に下ると幅4mほどの細長い郭4がある。郭2は今回行っていない 。
【歴史】 江戸時代に編纂された『甲斐国志』には、「中野ノ城跡 中野村 遥ニ西山ノ中腹ニ懸リ東西垂崖数十丈名ケテ大缺(欠の旧字体)ト云フ 中野村・秋山村ハ山足三四十町ニ在リ 川上・湯沢・塚原等ノ入会場ナリ 伝ヘ云フ新羅五郎種久ナル者ノ築ク所也 乃チ秋山太郎光朝要害ノ城墟ナリ 塁三重ニシテ二ノ郭・三ノ郭巍然タリ 南ハ山勢陵夷ニシテ郭基広ク曲城(クヒチガヒ)等アリ 平林村ノ岩径ニ城ノ橋ト云フ処ノ上ニ当リ険阻ナリ 東南ヘ一級下リ馬冷場ト云フ処三面ニ塁ヲ設ク 北ハ山峻ニシテ郭狭シ塁中渭滴(イッテキ)ノ水ナシ北ノ方地獄谷ノ渓流ヲ桔○(ハネツルベ)ニテ汲ミ揚ゲタリトモ西ノ方儀丹ガ瀑ノ水ヲ埋樋ニテ取リシトモ云フ」とあり、新羅五郎種久により築かれ、その後中野城が秋山太郎光朝の要害であったことが伝えられている。
現在の南アルプス市秋山に拠ったとされ、秋山の熊野神社(南アルプス市秋山603)は秋山光朝の居館跡と伝えられ、その南にある光昌寺(秋山567) には光朝の父遠光、光朝、光朝の夫人の墓とされる五輪塔がある。
新羅三郎義光を祖とし、甲斐国一円に勢力を持った甲斐源氏は、治承四年(1180年)の源頼朝の挙兵に呼応して、鎌倉幕府創立を目指す源氏勢力の一翼を担った。
しかし、幕府の成立過程において、甲斐源氏の強大な軍事力を恐れた頼朝は、武田信義、安田義定をはじめとする甲斐源氏を次々と謀殺、排除していった。
このような中、平重盛の娘を娶るなど平家と深い関係にあった光朝もまた、頼朝から排斥され、鎌倉勢に攻められ、ついには追い詰められ雨鳴城で自害したと云われている。
城山の南東下方に位置する雨鳴山山頂にも山城の跡があり、そこを光朝の自害した雨鳴城とする説があるが、この地域には中野城跡が自害の地であるとの伝承があることや、城山を雨鳴城と呼ぶ場合もあり中野城と雨鳴城の遺構が同一視されていること、さらには『甲斐国志』には「東南ヘ一級下リ馬冷場ト云フ処三面ニ塁ヲ設ク」と記載される施設が、その位置、造りからみて雨鳴山の遺構に比定できることから、雨鳴山の遺構は中野城の一部(支城)であるとする説もある。『南アルプス市教育委員会説明板』『歴史にふれる散歩道(中野城址)のご案内』 より。