安田城 (やすだじょう) (国の史跡)
所在地 富山県富山市婦中町安田244−1 2014.10.4
安田城 (やすだじょう) (国の史跡)
所在地 富山県富山市婦中町安田244−1 2014.10.4
史跡安田城跡資料館
城跡碑・堀
説明板・三の丸堀
説明板
二の丸・本丸土橋
二の丸土塁
本丸・土塁
安田城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 史跡安田城跡資料館(表記番地:月曜、祝日の翌日、年末年始は休館日 入館無料 無料駐車場50台)の駐車場が利用できる[マップコード40 349 194*53]。
平城で水堀の中に三の丸跡(地図)、二の丸跡(地図)、本丸跡と配置されている。本丸跡、二の丸跡には土塁が復元されている。三の丸跡に案内板を兼ねた模型が設置されている。
城跡の広さは東西約150m・南北約240m、約34000㎡で、城の東側を流れる井田川(神通川の支流)から水を引き込み周囲に水堀を構えていた。
本丸は東西約90m、南北約80mの方形であるが、郭の規模に対し基底部長が約14mという非常に幅広の土塁を四周に備えるという特異な点がある。なお、本丸北東隅に櫓が設けられていたのではないかと推定されている。
昭和五十六年(1981年)2月23日、国の史跡に指定された。平成二年(1990年)から四年にかけて整備事業が行われ、現在土塁、水堀が復元されている。
【歴史】 天正十三年(1585年)、豊臣秀吉が富山城に拠る佐々成政を征討するために出陣した「富山の役」の際に、富山城攻めの本陣となった白鳥城の支城として大峪城とともに現れるのが史料上の初見であるが、文献上に見えるものの、いまだ所在が確定されていない安城をその前身とする説もある。
前田家の武将岡嶋喜三郎一吉が城主として入り、同年、成政が降伏した後も、越中東部の新川郡が佐々領のまま残ったため、引き続きそのまま前田氏の前線拠点として使用された。
天正十五年の成政転封に伴い新川郡は秀吉直轄領となり、安田城の役目は一旦終わったものと考えられるが、慶長二年(1597年)前田利長が守山城から富山城へ居城を移すと、岡嶋一吉が片山延高とともにその支城として初め白鳥城へ入り、その後ふたたび安田城へ移った。
慶長四年(1599年)、前田利家死去により、利長は金沢へ帰還し、岡嶋一吉もそれに従った。
その後しばらく代官平野三郎左衛門が居城したが、慶長年間には廃城となったものとされる。
江戸時代、文化十年(1813年)に富山藩士安達淳直・直章により「安田古城之図」が描かれたことから、江戸後期にはある程度姿をとどめていたものと見られるが、近代にはいると水堀は埋まり城跡一帯は田畑として使用されており、遺構は判然としなくなっていた。
【発掘調査】 昭和四十年代末に圃場整備計画が持ち上がったことにより一時消失の危機に立たされたが、昭和五十二年(1977年)と翌年の二回にわたり発掘調査が行われ、古図に示されているとおりの遺構が確認されたことから、県内有数の貴重な平地城館遺跡として保存が図られた。
出土品の九割はかわらけで占められ、灯明皿として用いられたものが多くあり、また瀬戸美濃の天目茶碗や中国製の染付皿、越中瀬戸の皿、擂鉢などの陶磁器のほか、短刀、鉄釘、銅銭、砥石、ルツボ、鉄滓などが出土した。