挙母城 (ころもじょう) (七州城)
所在地 愛知県豊田市小坂本町8‐5‐1 2014.12.12
挙母城 (ころもじょう) (七州城)
所在地 愛知県豊田市小坂本町8‐5‐1 2014.12.12
南西隅櫓・石垣
城址碑・隅櫓
又日亭
豊田市美術館
【遺構★★★☆☆】
【案内・感想】 豊田市美術館(表記番地:月曜休館)南西に駐車場がある[マップコード30 288 070*68](地図)。
美術館の西、往時の石垣に昭和三十七年(1977年)隅櫓(地図)が復元されている。隅櫓の入口前に「擧母城阯之碑・子爵内藤政光書」と刻まれた石碑が建てられている。
その北に又日亭(ゆうじつてい)が保存されている。又日亭はもと寺部領主渡辺家の城内に在った書院で、明治二十五年(1892年)頃、竜寿院に移築された。
その後、昭和五十二年(1977年)に解体されることになったが、豊田市が譲り受け、隅櫓の北に移築復元された。豊田市の史跡に指定されている。
【歴史】 鎌倉時代の延慶二年(1309年)に中條景長によって金谷城が築かれた。
戦国時代に今川氏、後に織田氏に攻略され、江戸時代初期である慶長九年(1604年)に三宅康貞が1万石で入封した。康貞は城の破損が著しいことから、慶長十九年(1614年)金谷城から1㎞ほど北に陣屋を構え、桜の木を植えたことから俗に桜城といった。
元和五年(1619年)、2代康信が2千石の加増を受けて、伊勢、亀山城に転封となり、挙母領は天領となった。
寛永十三年(1636年)、3代康盛が亀山城から再び1万2千石で復帰した。
寛文四年(1664年)、4代康勝が三河田原城へ転封となり、桜城は廃城となった。
天和元年(1681年)、陸奥国石川藩より本多忠利が1万石で入封し、廃された桜城の跡に陣屋を置いてこの地を治めた。本多氏は3代に亘りこの地を治めたが、その間に衣を挙母と改めている。
寛延二年(1749年)、本多氏三代忠央は遠江相良陣屋に転封となり、替わって上野安中城から2万石で内藤政苗(まさみつ)が入封した。政苗は幕府より4千両を拝領して築城許可を得、桜城の再興を図ったが、矢作川の水害を度々被ったため、工事は遅々として進まなかった。
天明二年(1782年)、二代学文(さとふみ)は、新たな城地として童子山を願い出て許可され、天明五年(1785年)に完成した。
内藤氏の館として2代学文以降、7代文成まで89年間続いた。「三河国」「尾張国」「美濃国」「信濃国」「遠江国」「伊勢国」「近江国」の七つの国が見える高台にあることから、「七州城(しちしゅうじょう)」といった。
明治四年(1871年)廃藩置県によりすべての建物が取り壊された。
明治以降は学校敷地となり、一部が豊田市立童子山小学校(移転)や愛知県立豊田東高等学校(移転)として利用され、現在は豊田市美術館の敷地と城跡公園として整備されている。