苗木城 (なえぎじょう) (霞ケ城) (国の史跡)
最寄地 岐阜県中津川市苗木2897 2014.7.2
苗木城 (なえぎじょう) (霞ケ城) (国の史跡)
最寄地 岐阜県中津川市苗木2897 2014.7.2
登城ルート(緑線は車道)
大手虎口
風吹門跡
大矢倉石垣
綿蔵門跡
武器蔵礎石
本丸石垣
天守跡・展望台・城址碑
苗木城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高40m(駐車場より)】
【案内・感想】 国道257号線より東に600m行った「苗木遠山史料館」(表記番地)の北の道を200m東に行くと駐車場が用意されている[マップコード178 343 401*57](地図)。
そこより南東に虎口石垣があり、足軽長屋跡がある。南東に大手口道を150mほど行くと、三の丸大矢倉跡の切石石垣が良く保存されている。
その南に堀で隔てられた二の丸、その東に本丸があり門跡の礎石が残り、千石井戸と呼ばれる井戸が残る。
木曽川右岸山頂(高森山)の巨岩を利用した天守跡に天守建物(柱組展望台)が再築され、城址碑が建てられている。
本丸に行く途中に武器蔵などの礎石が復元されている。切石石垣が城跡全体に残っている。
また大手門の扉と柱が中津川市苗木遠山史料館に展示されている。
昭和五十六年(1981年)4月22日、国の史跡に指定された。
【歴史】 鎌倉時代初期に岩村城を本拠地として恵那郡を統治した地頭遠山氏の初代遠山景朝には子が無く弟の遠山景村が遠山氏の二代目となった。
仁治二年(1241年)景村は木曽川北部の所領確立のため、木曽川左岸の西山戸から右岸の那木津戸に進出した。那木津戸が当時、那木(苗木)と呼ばれた所で、遠山氏による木曽川北部進出の始まりとなった。
元弘年間 (1331~34年)遠山景長が、高森山(現在の中津川市苗木町)に砦を築いた。
元弘~建武年間 (1331~38年)の頃、遠山景利が恵那郡福岡村植苗木に広恵寺城を築いた。
大永六年(1526年)遠山昌利が植苗木から高森山に館を移した。昌利の子である遠山景徳に世継ぎが居なかったため、遠山氏の本家岩村遠山氏から、遠山直廉を養子として迎えた。
戦国時代の天文年間(1532~55年) 遠山直廉(なおかど) が高森に苗木城を築いた。
遠山直廉の死後は飯羽間城(岩村城の出城)遠山氏から遠山友勝を養子に迎え、子・友忠、孫遠山友政と続いた。
織田信長の没後、豊臣方の森長可(ながよし)に城を落とされ、城主遠山友忠は徳川家康を頼って落ち延びた。
代わって河尻秀長が苗木城代になった。慶長五年(1600年)三月、森氏が川中島に移封となり、河尻秀長はそのまま美濃に残り苗木1万石の領主になった。
九月関ヶ原の戦いが起こると、友忠の子遠山友政は豊臣方の河尻秀長から苗木城を攻め奪い取った。
戦後この功が家康に認められ、1万石余りをもって苗木に封じられ苗木遠山氏の初代となった。以後、明治四年(1871年)に廃城となるまで、遠山氏12代の居城として用いられた。
明治二年 (1869年)苗木十二代藩主の遠山友詳(友禄)が版籍奉還により藩知事となった。
明治四年 (1871年)廃藩置県により苗木藩は廃藩となり、苗木県となる。明治十七年 (1884年)7月7日華族授爵ノ詔勅により、遠山友詳(ともあき・のち友禄(ともよし))は子爵となった。