川手城 (かわてじょう) (革手城)
所在地 岐阜県岐阜市正法寺町33 2014.11.25
川手城 (かわてじょう) (革手城)
所在地 岐阜県岐阜市正法寺町33 2014.11.25
説明板
済美高校・土塁
城跡碑・神明神社
【遺構★☆☆☆☆】
【案内・感想】 済美高等学校(表記番地)の中央を東西に横切る道路に面して、土塁の一部がありその上に滑り台、鉄棒など遊具が設けられ、「川手城跡」の石碑と説明板があり、神明神社が祀られている[マップコード28 526 116*00] (地図)。
【歴史】 美濃源氏は平安末期から鎌倉時代にかけて美濃に土着した清和源氏の一族である。
源光衡は、源頼朝に従って軍功を挙げ、東美濃の地に土着して土岐氏と名を改め、現瑞浪市一日市場に居住し、屋敷に源氏の守護神・八幡神社を祀った。
そして文治五年(1189年)美濃国守護職となって鎌倉幕府と共に栄え、土岐源氏の祖となった。光衡の子・光行は源実朝に仕え、池田親九郎追討で軍功を挙げ左衛門尉となった。土岐市浅野に住み東美濃を統一した。
その子・光定は土岐氏惣領を継ぎ土岐市浅野に住み、執権北条貞時の娘を妻にし、隠岐守となって土岐氏隆盛の基となった。土岐氏中興の祖となる土岐頼光は文武に秀で人物豊かで、その子頼清や頼遠と共に、元弘三年(1333年)元弘の変で後醍醐天皇の令旨に応じ、足利尊氏と共に鎌倉幕府打倒に功を挙げた。
その後、建武新政の不満に兵を挙げた足利尊氏に従い数多くの軍功を挙げ「土岐絶えば幕府(足利)絶ゆべし」「諸家の頭、筆頭の頭」と信任を深くし、西美濃をも治めて美濃国守護の地位を築き、現瑞浪市一日市場、現土岐市大富に居館を構え11代続く守護職の初代となった。
第2代守護職土岐頼遠は、父頼貞と共に足利尊氏に従い軍功を挙げ、土岐市大富に住んだ。後、岐阜市切通に長森城を築き居城とした。頼遠は功に募り驕慢にして康永元年・興国三年(1342年)持明院(後光厳上皇)に無礼を働き断罪された。
第3代守護職・土岐頼康は、土岐頼遠の後を継ぎ土岐氏惣領となった。足利尊氏の命により、信濃国、伊予国平定の功により、美濃国・尾張国・伊勢国の三ヶ国の守護職となった。
手狭となった長森城に代わり、文和二年(1353年)、川手城を築城し、以降4代康行、5代頼忠、6代頼益、7代持益、8代成頼、9代政房、10代政頼、11代土岐頼芸(よりのり)までの本拠地となった。旧木曽川(現境川)と荒田川に挟まれた自然の要害といってよい地に築かれた城郭であった。
城郭といっても、広大な敷地に正法寺、八幡神社など神社・仏閣等を設置し、本殿は御殿風の建物であった。戦う城でなく、住居としての城である。
応仁元年(1467年)、応仁の乱により都から逃げ延びた公家らが、当時の守護職で力のあった土岐氏を頼り、川手に移住。これにより川手の地は都文化の花を咲かせることになる。当時その繁栄はかなりのものであり、西の山口(大内氏)東の川手と言われた。
しかし明応二年(1493年)、土岐氏の相続争いを発端とする船田の乱により、城は焼失した。後に再建されるが、享禄三年(1530年)、土岐氏を追放した斎藤道三が稲葉山城(岐阜城)に拠点を移した事により廃城となった。
城下町である川手(現岐阜市上川手、下川手)は廃城後も斎藤道三等の加護で繁栄し、当時来日した宣教師等がその繁栄振りを書き残している。しかし、織田信長の時代には川手の町は殆ど岐阜に移り衰退した。
廃城後も土塁等が残っていたが、徳川家康の命により加納城の築城が開始されると、土塁の土は殆どが使われてしまった。以後あちこちの集落に在った神社は、明治以降、現神明神社に合社(九社)された。