坂戸城 (さかどじょう) (国の史跡)
最寄地 新潟県南魚沼市坂戸691 2014.7.17
坂戸城 (さかどじょう) (国の史跡)
最寄地 新潟県南魚沼市坂戸691 2014.7.17
登城ルート(青は御館/緑は桃の木平)
家臣屋敷跡
城跡碑・御館・土塁石垣
「上杉景勝・直江兼続生誕之地」碑
城坂
桃の木平
広瀬曲輪と実城の切岸
実城曲輪・富士権現社
実城曲輪
坂戸城 実城跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高370m】
【案内・感想】 「鳥坂神社」(表記番地)の北に専用駐車場が用意されている(地図)[マップコード417 211 321*71]。
東に行くと広い「家臣屋敷跡」や長い石垣の残る「御館」「御居間屋敷」の曲輪があり、「上杉景勝・直江兼続生誕之地」碑が立てられている。
登山者駐車場より徒歩で900mほど行くと、「三合目」に「城坂登山口」があり(地図)、頂上まで比高約370mの九十九折れの急坂道である。「五合目」に沢があり、「八合目」付近に「桃の木平」の広い曲輪がある。
「九合目」の標柱を登ると、「広瀬曲輪」「実城(みじょう)」曲輪があり標高633.3mの坂戸山頂上に「富士権現社」が祀られている。
頂上から四方を眺望でき、魚野川に沿った六日市の市街が眼下に望める。約1時間を要した。
実城の北に「小城」「大城」があり、西に「主水曲輪」がある。別の登山ルートとして駐車場南の「薬師堂」横を通る薬師尾根コースがある。
昭和五十四年(1979年)6月11日、国の史跡に指定された。
【歴史】 鎌倉時代頃、越後の魚沼郡南部(現南魚沼郡)にあった上田荘は清和源氏流新田氏一族の勢力下にあって、当時、上田荘の中心を見下ろす坂戸山に城郭が築かれていたとも推定されるが、本格的な造営は南北朝時代以降のことと考えられる。
南北朝動乱において、北朝方に立った上杉氏は、越後国南部から南朝方に属した新田氏らを放逐し、上杉憲顕(のりあき)の時に越後守護に任じられたが、その家臣長尾高景の一族の者が、文和年間(1352~55年)に上田荘を領し、上田長尾氏を称し、坂戸山を居城にしたと伝えられる。
こののち上田長尾氏は、守護代の長尾氏とならんで越後国に重要な位置を占めた。その居城である坂戸城は、越後府中(現在の上越市直江津地区)と関東平野を結ぶ陸上交通の抑えとして、また、魚野川を利用した河川交通の要所として、さらに魚沼の穀倉地帯を擁する経済上の要地として、重要な役割を担うこととなった。
守護代長尾為景は、永正四年(1507年)、越後の国人衆を糾合して守護上杉房能(ふさよし)を排斥し、永正七年(1510年)には関東管領上杉顕定をも長森原の戦いにおいて敗死させて越後一国を支配した。
上田長尾氏は守護代長尾氏に対して一定の独立性を保持したものの、為景の死後、長尾景虎(上杉謙信)が越後国主となると、天文二十年(1551年)には上田長尾氏の長尾政景が上杉謙信に坂戸城を包囲され、謙信に誓詞を提出して、その軍門に降った。
なお、その後、政景は立身するものの、永禄七年(1564年)、付近の野尻池にて琵琶嶋城主宇佐美定満(下平吉長とも)との舟遊び中に定満とともに謎の死を遂げた。
天正六年(1578年)謙信の死後政景の子で謙信の養子となっていた上杉景勝と、後北条氏出身の上杉景虎との家督争い「御館の乱」が起きた。
景虎の要望に応えて出陣した北条氏照・氏邦(景虎の兄)らは入越すべく、三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。しかし景勝方はよく守り、また冬が近づいていたため、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残し、撤退した。
そして景虎は翌年鮫ヶ尾城で自害した。北条勢の越後への侵入をこの城で阻んだことが景勝方の勝利の大きな要因となった。
乱を制して景勝が春日山城主になると、父が政景の家臣であった樋口兼続(のちの直江兼続)をはじめとする「上田衆」が景勝の直臣団を構成するようになり、同時に、坂戸城は、春日山城の有力な支城として領国経営の重要拠点となった。兼続も坂戸城主に任じられた。
景勝は、天正十年(1582年)に越中方面で織田信長の軍勢と交戦しており、その際、上野国厩橋城(前橋城)から越後に侵入した滝川一益の軍勢とも戦っているが坂戸城は持ちこたえた。
慶長三年(1598年)、景勝は会津に転封となり、かわって越前国から堀秀治が越後に入部すると、坂戸城には、秀治の家臣堀直竒(なおより)が入り、上田三万石を領した。直竒は坂戸城を山麓の居館部を中心に近世城郭へと改修した。
慶長十五年(1610年)堀直竒が信濃国飯山に移されたのち、坂戸城は廃城となった。