日中城 (にっちゅうじょう) (日中砦)
最寄地 富山県中新川郡立山町日中742 2018.6.14
日中城 (にっちゅうじょう) (日中砦)
最寄地 富山県中新川郡立山町日中742 2018.6.14
説明板
登城ルート
北側道路・左が日中城跡
城址碑・説明板
城址碑・空堀
空堀・土塁(南西側)
東側の崖
日中城跡(地図)
【遺構★★★☆☆】
【感想】 弓庄城の西約600m、白岩川を挟んだ台地に築かれた崖端城となっている。曲輪は墓地となっており、北(道路)、西、南の三方を土塁空堀で囲んでいる。
【案内】 表記番地の南の墓地が日中城席であり、墓地となっている[マップコード144 312 479*07] 。
説明板、城址碑が建てられ、西から南にかけて空堀土塁が残り、土橋が墓地入口となっている。
昭和五十年(1975年)6月30日、立山町の史跡に指定された。
【歴史】 弓庄城の城主土肥美作守政繁は初め上杉謙信に従属していたが、天正六年(1578年)謙信が急死し、織田信長が越中に進出すると、織田方に従った。
しかし、天正十年(1582年)信長が本能寺の変で討たれると、再び上杉方に通じるようになった。織田方であった佐々成政は、その後天正十一年(1583年)にかけて越中支配のために上杉方がいる越後の西海岸まで侵攻した。
魚津城・小出城両城陥落後の天正十一年四月以降から成政の攻勢が本格化した。
佐々成政は弓庄城主・土肥政繁を攻める為、4つの砦を築くが日中城や郷田砦はその付城であったといわれる。
土肥氏は弓庄城で籠城を続けたが、豊臣秀吉が賤ヶ岳の合戦による戦後処理として成政の越中支配を認めた結果、上杉方に通じていた政繁は弓庄城を明け渡して越後の糸魚川へと退去した。