大垣城 (おおがきじょう) (麋城 (びじょう)・巨鹿城 (きょろくじょう) )
所在地 岐阜県大垣市郭町2‐52 2011.6.4 2013.9.2
大垣城 (おおがきじょう) (麋城 (びじょう)・巨鹿城 (きょろくじょう) )
所在地 岐阜県大垣市郭町2‐52 2011.6.4 2013.9.2
大垣公園
配置図
戸田氏鉄公騎馬像
復元天守・石垣
復元天守
戌亥櫓
大垣城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 周囲に駐車場は少なく、交通量の少ない西側一方通行道路に短時間路駐した[マップコード78 704 033*70] 。東に、本丸・二の丸の跡に整備された大垣公園がある。
「戸田氏鉄公騎馬像」が広場の東にあり、城門をくぐると四重天守櫓(表記番地:昭和三十四年建造) 、二重戌亥櫓(昭和四十二年建造)、丑寅櫓が外観復元されている(RC造)。水門川として堀の一部が残る。
【歴史】 揖斐川(牛屋川)東に在った牛屋に、明応九年(1500年)竹腰尚綱によって築かれた。
天文十三年(1544年)織田信秀により攻め落とされ、織田信辰が五年間、城主を務めた。
天文十八年(1549年)斉藤氏配下の竹越尚光が城主となった。永禄二年(1559年)氏家直元が城主となり、堀や土塁の改修が行われた。
天正十三年(1585年)一柳伊豆守直末は田中吉政・中村一氏・堀尾吉晴・山内一豐らとともに秀吉の甥・豊臣秀次の宿老に任命され、一柳城より大垣城に移り、3万石を領した。
直末は天正十七年(1589年)軽海西城に転封となった。慶長元年伊藤祐盛が城主の時、天守が上げられた。
慶長五年の関ヶ原の戦いでは、西軍を率いた石田三成の本拠地となり、その後江戸時代になって譜代大名石川康通が城主になった。
その後、寛永十二年(1635年)摂津尼崎城より戸田氏鉄が入城し、大垣藩戸田十万石の居城となり、以後明治維新まで続いた。
昭和十一年(1936年)には国宝に指定されたが、昭和二十年(1945年)の空襲で焼失した。本丸・二の丸を並べ堀で囲み、その外が三の丸で、さらに外側を武家屋敷の総構とした城であった。