枇杷島城 (びわじまじょう) 琵琶嶋城
所在地 新潟県柏崎市元城町1-1 2017.6.6
枇杷島城 (びわじまじょう) 琵琶嶋城
所在地 新潟県柏崎市元城町1-1 2017.6.6
本陣川・柏崎総合高校
案内標識
石碑・標柱・説明案内板
配置図
枇杷嶋城趾碑
枇杷島城跡(地図)
【遺構★☆☆☆☆】
【感想】 県立柏崎総合高等学校敷地を挟むように、鵜川とその支流本陣川が流れ天然の堀の役目を担っていたと思われるが、水害も多かったと思われる。
北側の支流本陣川に架かる市道橋の横からも入って行け、起伏した畑が見られる。
【案内】 県立柏崎総合高等学校敷地となり北西の一角の生垣の中に、石碑、案内図が建てられている。[マップコード187 336 897*26]。
昭和四十八年(1973年)8月1日、柏崎市の史跡に指定された。
【歴史】 築城年は不明だが、伊豆の豪族であった宇佐美氏が、南北朝時代の初期、越後守護職に任ぜられた上杉憲顕に従って越後に入った時に、築城したと云われる。
宇佐美氏は、度々起こった越後守護の上杉氏と守護代の長尾氏の争いにおいては、常に上杉方に与した。
その後、当主宇佐美定満は、長尾氏の臣下となり、上杉謙信の軍師として活躍したとされるが、永禄七年(1564年)、謀反の疑いがあった長尾政景と共に、坂戸城近くの野尻池で溺死し、宇佐美氏は没落した。
その後、前島修理亮が城主となった。天正六年(1578年)御館の乱の際、前島修理亮は上杉景虎方に与した。
上杉景勝は、枇杷島城近くの旗持城の城将・佐野清左衛門尉宛てに「枇杷島城への警戒、枇杷島城から御館への物流の阻止、そして枇杷島城をどうしても味方に引き入れるように」、との手紙を出している。この事から、枇杷島城の軍事的・経済的重要性が高かった事が伺える。結局は、御館への物資輸送を船で行おうとしたが、佐野清左衛門尉の攻撃により失敗し、まもなく降伏・開城した。
乱後は桐沢具繁が入城した。在城料として、乱で没落した北条家の所領(現、柏崎市北条)を与えられた。
慶長三年(1598年)の上杉家の会津移封に従い、廃城となった。
遺構は、昭和初期まで土塁などが残っていたが、河川改修や柏崎総合高校(前、柏崎農業高校)建築に伴い、消滅した。
また、甲州武田氏と幾たびも取り合いとなり、宇佐美定満溺死の野尻湖にある野尻城も、枇杷島城とも呼ばれていた。