福島城 (ふくしまじょう) (木曽福島城・向城)
最寄地 長野県木曽郡木曽町福島5823‐8 2014.7.3
福島城 (ふくしまじょう) (木曽福島城・向城)
最寄地 長野県木曽郡木曽町福島5823‐8 2014.7.3
縄張り図
登城ルート(緑線は車道)
登り口
三の丸跡
3・2郭間の堀切
二の丸跡
本丸虎口
本丸跡
本丸跡
福島城 本丸跡(地図)
【遺構★★★☆☆ 比高110m】
【案内・感想】 標高1281mの城山に連なる東尾根筋の山頂(標高約1040m)に福島城跡がある。
木曽福島郷土館(表記番地)の西100mを北に「城山林道」を約1㎞登った地点に駐車(一台分のスペース)できる[マップコード420 338 741*20]。そこに登山道(地図)の標識「0.8㎞」があり、比高110mの城跡に登る。
登ってゆくと分岐道に城跡まで「0.6㎞」と「70m」の標識が立てられ、岩場はなく登り易い。登り詰めると堀切に着き、南に三の丸、北に栗の大木のある二の丸がある。
堀切を越えて虎口に栗の大木の生える本丸がある。東西20m・南北30m程の広さの本丸に城址標柱と説明看板が立てられ、祠が祀られている。 登山道は他に興禅寺山尾根コースがある。
「上之段城(うえのだんじょう)」 上之段城は木曽町福島4688の北のグランドから関山公園付近と思われる。
又小丸山城跡は木曽青峰高等学校(木曽町福島1827-2)グランドから南のNHK受信所にかけての一帯と思われる。興禅寺北には木曽義仲公の墓がある。
【歴史】 戦国時代の天文年間(1532~55年)、木曽氏18代の木曽義康により築かれた。平時は、「上の段城」を館とし、この山城を「詰の城」とし、木曽川を挟んで館の向いに築かれたので向城とも呼ばれた。
木曽氏十九代の木曽義昌も居城とした。武田家の遺領を巡り上杉景勝と徳川家康・北条氏直が争うと(天正壬午の乱)、義昌は家康に通じて盟約を結び、再度安曇・筑摩両郡および木曽谷安堵の約定を得たが、天正十二年(1584年)、家康と羽柴秀吉との対立をうけて義昌は盟約を反故にし、次子・義春を人質として秀吉に恭順するに至った。
このため家康は小笠原貞慶、菅沼定利、保科正直らを木曽福島へ攻め込ませ、妻籠城で戦ったが、義昌が勝利した。これによって、家康は木曽家を快く思わなくなったと史書は伝えている。
天正十八年(1590年)、家康の関東移封に伴い、秀吉から徳川附属を命ぜられて下総阿知戸(千葉県旭市網戸)1万石(あるいは2万石とも)が与えられて木曽谷を退き、城は廃城となった。