曽根城 (そねじょう)
所在地 岐阜県大垣市曽根町1丁目772‐1 2014.11.26
曽根城 (そねじょう)
所在地 岐阜県大垣市曽根町1丁目772‐1 2014.11.26
説明板
華渓寺・城跡碑と説明板
本丸址碑
石垣
堀跡
曽根城公園
曽根城 本丸跡(地図)
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 本丸跡に華渓寺(表記番地)が建てられ、門前に「曽根城跡本丸址」「曽根城跡」の石碑、案内板が建てられている[マップコード78 824 860*11] 。傍に「福水」と呼ばれる湧水がある。
本堂の北側に石垣と発掘調査説明板が建てられている。その北が池等のある曽根城公園である。公園には「梁川星厳紅蘭像」や日時計「日日新」がある。
華渓寺の北に石垣が残り周囲に内堀跡の田圃がある。約2万㎡の敷地に約4千㎡の池(湿地)があり、約80種、約1万6千株の花菖蒲があり、天然記念物のハリヨの生息地である。
華渓寺所蔵の「濃州曽根古城跡図」によれば、本丸の東に二の丸があり、内堀と外堀、城下町を囲む惣堀を備え、家老屋敷、侍屋敷、町屋などが並んでいたとみられる。本丸は千坪、二の丸を含めると4千~5千坪の規模だったと推定されている。大垣市の史跡になっている。
【歴史】 永禄年間(1558~70年)、稲葉良通(一鉄)により築城された。
本能寺の変後、稲葉一鉄は豊臣秀吉の不審を買い、現在の揖斐川町清水城に退いた。
その後、天正十六年(1588年)、西尾光教が城主となった。 関ヶ原の戦いでは、西尾光教は東軍に属した。西軍の島津義弘の兵が城下に火を放ち、銃撃するという示威行為を行うが、水野勝成が援軍に駆けつけ反撃をした。
関ヶ原の戦い後、西尾光教はその功績により、揖斐陣屋(揖斐城の近く。現在の揖斐川町三輪)に移り、慶長六年(1601年)廃城になった。
春日局の父は明智光秀の重臣であり甥(実際には従弟)とも言われる斎藤利三で、母は稲葉良通(一鉄)の娘である。後に十七条城主稲葉正成の妻となっている。
華渓寺に伝わる古地図には、斎藤利三の住居が記載されている。娘の春日局(福)もこの地で誕生したという説もあるが、利三は当時、主君の明智光秀に従い、丹波国の黒井城に居た。