舟ヶ谷城 (ふながやじょう) (新野新城)
最寄地 静岡県御前崎市新野3750 2022.9.11
舟ヶ谷城 (ふながやじょう) (新野新城)
最寄地 静岡県御前崎市新野3750 2022.9.11
登城ルート
登り口・看板と説明板
説明板
1号堀切
2号堀切
4号堀切
本曲輪西の1号横堀
5号堀切
6号堀切
北曲輪
舟ヶ谷城跡(地図)
【遺構★★★★☆ 比高60m】
【感想】 御前崎市新野にある標高約80mの南北に伸びた丘陵に築かれている。
本曲輪は採土で消滅しているが、北曲輪との間の尾根に深い堀切が7条残っており、圧巻である。
【案内】 御前崎市新野の表記番地東に入口があり、道標が建てられている[マップコード83 314 865*75](地図)。駐車スペースは少ないが、南側の市道に若干の余地がある(地図)
舗装道を登ってゆくと山裾に大きな城跡看板や説明板が建てられている。
やや南の階段より登り、尾根伝いに遊歩道が設けられ標識も多く立てられ、7条の堀切を経て安心して北曲輪まで行ける。北曲輪先の有ヶ谷口付近は遊歩道が崩落し、通行止めとなっている。
1号横堀の東側が本曲輪であったが採土のため見ることはできない。
【歴史】 今川氏の一族で新野領主・新野左馬助親矩により築かれ、八幡平城から移り居城とした。
新野新城とも呼ばれその後、東尾根続きにある八幡平城(新野古城)を詰城とした。
永禄五年十二月(1563年1月)今川氏真により井伊直親が暗殺されると、左馬助はその子・虎松(のちの井伊直政)を匿い、保護した。
しかし永禄八年(1585年)に曳馬城主・飯尾連竜が離反して徳川家康につくと、氏真の命で左馬助は今川方の軍勢として合戦に参加し討死した。
その後、高天神城をめぐる武田・徳川両軍の攻防の頃、武田軍によって八幡平城とともに改修されたと考えられる。