上条城 (じょうじょうじょう)
所在地 愛知県春日井市上条町2丁目 2014.12.12
上条城 (じょうじょうじょう)
所在地 愛知県春日井市上条町2丁目 2014.12.12
林金兵衛碑・屋敷跡碑
林金兵衛碑(上部拡大)
土塁・櫓台・堀
土塁・石垣
【遺構★★☆☆☆】
【案内・感想】 中央本線春日井駅の南約300mに位置し、県道25号線「上城跨道橋南」交差点より東に約240m行った所に「林金兵衛碑」の石碑、屋敷跡碑が建てられている[マップコード4 568 283*36](地図)。
曲輪は月極駐車場となり、北から西にかけて、90m程の土塁(一部石垣)と北西角に櫓台が残っている。北側に堀跡が残る。東約400mに庄内川が流れている。
【歴史】 建保六年(1218年) 小坂光善により築城された。その後、小坂家(林家)は近江国に移住。南北朝時代初期 上条入道が支配し、後に林重之の代に近江国からこの地に戻った。
文明十八年(1486年)当時の上条城主・林重緒(しげお)が仁済宗恕を招いて上条城南方約1㎞に泰岳寺(上条町10丁目198)を開山した。
弘治二年(1556年)稲生の戦いの際に、小坂雄吉は佐久間氏や家臣に吉田城と上条城の周辺の守備を任せ、雄吉らは佐々成政らと共に戦場で戦い勝利を収めた。
同年、清洲城主・織田信光が家臣の坂井大膳により殺された際、織田信長の兵召集に応じた吉田城主・小坂久蔵正氏は坂井の軍勢により討死した。
久蔵に嗣子なく、放置してあった城を、信長は家臣の小坂雄吉に跡を継がせようとした。元々初代吉田城主である小坂孫四郎の孫・小坂吉俊の孫が雄吉の生母であり、吉俊の息子の関係で、両家はもともと親戚であった。
こうして小坂家を継ぐことになった雄吉は、吉田城と上条城の城主になり、信長の命令で上条城にやってきた家臣の佐久間氏ら約五百人と共に上条城に入った。
永禄元年(1558年)林盛重はここの全ての領地を信長に献上し、信長の支配下になった。盛重は帰農して武士の家系が終わり、林家は代々地元の豪農として活躍した。
その後、小坂雄吉は城の拡張、大改修を行った。この頃の所領は約2万4千石であった。
天正十二年(1584年)小牧・長久手の際、盛重の息子林重登(しげと)は、池田恒興からの要請をうけて城跡など旧跡を修理して砦を造り、道の案内などをした。小坂雄吉は伊勢国長島に出陣し、小坂雄吉が戻るまで森川権六らが城番をしていた。
池田恒興が率いる軍が一時的に徳川家康の本拠の三河国を攻める際に足がかりとしてこの城に入城した。上条城で二泊した池田恒興は、後に長久手で徳川家康の率いる軍と衝突し、森長可(ながよし)らと共に戦死した。
天正十四年(1586年) 豊臣秀吉は上条城や吉田城、小牧にある諸城を取り壊すことを条件に戦いを終えたため、天守を始めとした城の建造物は壊されたが、林重登が上条城跡に新たに屋敷を構えた。
小牧・長久手の戦いが終わった後、豊富秀吉は自ら兵を卒いて龍泉寺の帰りに林重登の屋敷に来て少しの期間ここに滞在した。
慶長年間初期(1596~98年)に、秀吉がこの時の礼に重登を春日井郡57ヶ村の総代庄屋に指名し、林家は重登から林金兵衛の代まで大庄屋として勤めた。
幕末から明治の期間は初代東春日井郡長の林金兵衛の屋敷であった。 昭和五十二年(1977年)5月20日、江戸時代に建築された現存建造物であった母屋が火事により焼失した。