大野城 (おおのじょう) (宮山城)
所在地 愛知県常滑市金山城山 2014.12.11
大野城 (おおのじょう) (宮山城)
所在地 愛知県常滑市金山城山 2014.12.11
案内図
空堀・門
本丸跡・展望台・門
大野城趾碑
二の丸跡・遊具広場
大野城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 城山公園展望台南側に駐車場が用意されている[マップコード152 025 852*76](地図)。
遊歩道が設けられ、空堀へ下って少し北に行くと「佐治神社」の門があり、そこを登ると二層の櫓風の展望台があり、門、「大野城趾」の石碑(昭和三十八年)が建てられている。南の櫓台跡に城主であった佐治氏を祀った佐治神社がある。
本丸から伊勢湾が望め、西にある「桃山御陵(明治天皇陵)遥拝所」となっていた。
空堀を通って北に行くと二の丸に遊具広場があり、土塁が残っている。東側に下ると三の丸に多目的広場がある。
昭和四十三年(1968年)11月11日、常滑市文化財に指定された。
【歴史】 観応年間(1350~52年)頃に三河国守護の一色範氏が知多半島に勢力を伸ばし、その子一色範光が伊勢湾を見下ろす高台に城を築き、大野湊を中心とした伊勢湾の海運を手中に収めた。
しかし、一色氏は将軍足利義政と対立し、三河守護職を失い、応仁の乱を経て次第に衰退した。
尾張守護の土岐氏に大野城は奪われ、家臣の佐治駿河守宗貞が入城し、2代上野守為貞、3代八郎信方、4代与九郎一成と百年余の支配が続いた。
3代信方の頃に織田氏に従うが、信方は若くして討ち死に、4代一成は幼少のため、天正二年(1574年)、信長の弟織田長益が入った。
織田長益は、大野城の水利の悪さから、すぐ北向かい(1㎞余)に大草城の築城を始めた。
一成は浅井長政の娘・お江を娶り、天正十二年(1584年)本能寺の変後、織田信雄に仕えるが、羽柴秀吉に追放され伊勢に移り、大野城は廃城となった。
その後一成は京で病死した。お江(小督(おごう)・後の崇源院)が最初の結婚で一成に嫁いで来たのがこの大野城であることも有名である。
小督はその後亀山城主・豊臣秀勝に嫁ぎ、秀勝が文禄の役陣で病死した後、文禄四年(1595年)九月十七日、徳川秀忠の正室となった。