春日城 (かすがじょう)
最寄地 長野県伊那市西町5776 2014.7.3
春日城 (かすがじょう)
最寄地 長野県伊那市西町5776 2014.7.3
三の丸
三・二の丸間の橋・空堀
三・二の丸間の橋・空堀
二の丸
二・本丸間の空堀
二・本丸間の橋・空堀
本丸跡・土塁
本丸跡・城址碑
宗良親王歌碑
春日城 本丸跡(地図)
【遺構★★★★☆】
【案内・感想】 伊那文化会館(表記番地)の東側道路100m南東に駐車場があり[マップコード171 309 210*80] 、西に城跡、東に春日神社がある。春日(城址)公園として整備され、桜の名所となっている。
伊那文化会館敷地から南東に伸びる舌状台地(東西約100m・南北約300m・高さ約20m)の先端に本丸を置き北に二の丸、三の丸と並ぶ梯郭式構造である。深い堀切で夫々隔てられ、橋で繋がれている。三の丸は滑り台等の遊具の置かれた芝生広場となっている。
太鼓橋(三の丸橋)を渡ると二の丸で鎮魂碑、句碑のある広場となっている 。木橋(二の丸橋)や太鼓橋(本丸橋)を渡ると本丸で、北に土塁が残り、「春日城本丸址」や「春日城の沿革」、「伊那の勘太郎碑」の石碑があり、四阿が建てられ、伊那の市街や南アルプスに連なる山々が臨める。
又、東の割烹いづみ(伊那市西町5597‐7)前に「宗良親王歌碑」(ちらぬまにたちかえるべき道ならばみやこのつとに花もをらまし)がある。
【歴史】 信濃国の滋野氏三家(小太郎・小次郎・三郎)の小次郎根津氏の支族である春日氏が築城したといわれ、戦国時代には伊奈の豪族伊那部大和守重慶の居城だった。
はじめ三百貫文を領し十騎の将であったが、次第に勢力を増大した。本姓は春日氏であり伊那地方の重鎮となった。
重慶の子但馬守重成が継ぎ、更にその長子・左衛門尉重親が後を継いだ。弟重国を殿島につかわし殿島城を経営させた。
弘治二年(1556年)武田信玄のために斬られた郷士の中に春日河内守がいるが、これは重親の子であろうと考えられる。後の城主・春日河内守昌吉は高遠城主・仁科盛信に従った。
天正十年(1582年)、織田信忠軍の信濃侵攻に伴い春日城は兵火に罹り炎上した。昌吉は部下を引き連れ本城の高遠城に参じ、虎口の門を死守したが、盛信と共に討死した。以来、再建されることなく廃城となった。『春日城の沿革』。